野村将揮 | Philosophical Insights − 哲学と政策と経営のあいだ −

哲学研究者で元経産官僚で医療AIベンチャーCXOがハーバードで考えた哲学的洞察の走り書き

「白い犬とブランコ」の記憶

学部生時分に掲題の短編に出会った。当時はドゥルーズのメルヴィル解釈に傾倒していたはずなのだが、いかなる心境ゆえか聴講していた中国思想の講義で紹介された作品群のひとつだった。

講義を担当されていた教授は魯迅「故郷」などの新訳で高名だった。中学の教科書に掲載されていた「故郷」は記憶に刻まれていたが、教授の新訳は、それと比しても殊勝だった。中間レポートで当該作品中の一文の訳出に係る解釈を書き綴ったところ、「同感です。」といった旨の講評が添えられて返却された。

掲題の短編は期末レポートで採り上げた(訳は別の研究者によるもの。)。この作品「白い犬とブランコ」は、ノーベル文学賞も受賞した莫言 (Mo Yan) が郷里の記憶に基づいて紡いだ作品であり、郷里を離れて都市部で出世を重ねた主人公が久方ぶりに帰郷した折の物語である点で「故郷」とも通底している。まさに題名が示唆するように、慎ましくも繊細な色彩を以て生命の脈動と無機的な残酷さとを重層的かつ切実に醸出することに成功している、人類史に残されるべき稀有な名作であり、また、名訳でもあったように思われた。すでに卒業後は経産官僚になることが決まっていた当時の自分には、その技巧と主題もあって、殊に趣深く感じられた。

返却されたレポートには「深い共感に支えられた解釈である。」といった旨のことが書かれていた。その講評の冒頭には「野村将揮 同学」と付されていた。初めて目にした言葉だった。甘美と形容するにはあまりに厳かなその一語は、それでいて、「知の下では誰しもが等しくともにある」という矜持と敬意を纏っていた。上記した同感も、共感の感得も、両者があってこそのものだった。

あれから10年が経ち、曲がりなりにも学術論文を書くに至っている。こんな自分は、中学時代の教科書から、あの教授が数え切れないほど用いてきたであろう何気ない一語に至るまでの、あまりに瑣末で尊い記憶の蓄積に支えられている。掲題の作品を含む短編集は、今なお書斎の書棚にある。

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大江健三郎が莫言の家を訪ねた際に、文学における風景と記憶について述べた貴重な動画:

https://youtu.be/joK-E0IHuMI?t=217

『白い犬とブランコ 莫言自選短編集』(NHK出版)

https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000054362003.html