野村将揮 | 政策と経営と哲学のあいだ

京都/ハーバードを妻子&愛犬と散歩しながら考えたことの断章

「正しく苦しめ」

掲題は10年以上前に友人に言われた言葉。苦手なことや不愉快なことからの逃避が可能だと錯覚させてくる類の事物が世にどれだけ増えようとも、人間の生は、綺麗事や小手先で肯定できるほど容易でもなければ浅薄でもない。

とは言え、騙されている側を一概に断罪すべきかと問われれば、畢竟は自由意志の所在に帰結するので断じ難い。現代社会では(実際的に、つまりは主として法規範から事後的に生成される社会規範によって)これが措定されているので、人間社会に騙されないための自助努力が社会的に要請されるというトートロジーが成立してしまっている。

これを打破できるのは、人生なんてものは元来的にも究極的にも苦難そのものである、という悲劇的な是認にほかならないのだろう。だが、この悲劇性からの救済を騙って様々な社会装置や社会潮流が日常生活を浸潤してくるので、前述のものと相補的に重層的トートロジーが織り成されていく構造がある。これを延々考え抜いていくと、社会からの一定の隔絶を自ら担保するほかなくなってくるようにも思われてしまう。つまりは、その種の逃避自体が原義的に不可能であるという絶対的現実を、自己存在 "のみ" と向き合うことで受容していくという別次元での苦難の受容であり、この態度こそが死に際に問われるのではないか。それは、おそらくに、死やそのあり方自体を問うよりも余程に苦しいが、正しい苦しみ方と言って差し障りないはずだろう。

 

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