野村将揮 | 政策と経営と哲学のあいだ

京都/ハーバードを妻子&愛犬と散歩しながら考えたことの断章

哲学的に考えてみる: SDGsと日本の哲学

本稿では巷で流行りのSDGsについて哲学的に考えてみたい。先立って結論染みたものを極めて単純化して述べてしまえば、下記のようなこととなる。

SDGsやSustainabilityまわりの議論は、個人主義や資本主義といった今日日において支配的な思想に通底する根幹の西洋的規範、すなわち二元論(Dualism/Dichotomy)や要素還元主義(Reductionism)等の超克を志向する思想潮流の(再度の)萌芽かもしれない。

そもそもで、SDGsの "Sustain" や "Develop" といった概念自体が、極めて西洋的なものにほかならない。というのも、 "Sustain" や "Develop" といった動詞で意味される概念の大前提には、自己/人間に主体としての特権を付与した上で他者/自然などを対象化する精神性があり(これは自然を目的格に置こうとする心性でもある)、これは人類の思想史上は決して普遍的なものではない。

また、この種の運動論や思想転換の試みは戦後も頻発していたことは看過できないし、さらに穿った見方をすれば、環境問題/気候変動の議論さえもが、実際的危機や具体的課題として一般に想像可能性が高いがゆえに、アービトラージの演出を伴う政治利用や市場創出に繋げられている側面ともシビアに向き合う必要がある(このように書くと昨今の日本では「野村は環境問題/気候変動の解決に反対なのか」と言われてしまいそうだが、論理的にも字義的にもそのようなことには一抹とて言及していないことを念のため付言しておく。)。

徐々に本論に入って行きたい。

 

自分と他人、自社と他社、自国と他国。私たちは特別に意識することもなく、これらを別の存在として区分している。たとえば、当然に、自分と他人は異なる個人であり、自社と他社は(先ず以て登記簿において)株主構成も経営陣も所在地も異なる法人であり、日本と他国では言語も歴史も文化も法令も社会制度も別物である。

これらの極めて一般的な考え方、大袈裟に言えば規範意識に、実はすでに無数の誤謬が内在している。われわれはこういった二者間の可分性を当然に前提しているが、この前提の正当性や妥当性を深く丁寧に考えることを放棄/失念している場合が大変に多い。私ごときが述べるのは僭越の極みながら、この種の「一般的には考えなくてもいいと思われてしまっている大事な事柄を深く丁寧に考える営為」こそが哲学であり、したがって、哲学のアプローチは人類社会の未来やこれに紐づく事業・組織・政策等に活かせる余地が多分にあるというのが個人的信条でもある。

 

話を進めていきたい。そもそも、自分と他人を分けるものは何なのだろうか。一例に身体の物理的な隔りが挙げられるだろう。だが、そもそも(自分の)身体とは何かを考えようとすると、どうにも難しい。ここで、哲学的な思考実験を展開していくこととしたい。なお、下記していく思考実験はすべて私が独自に考案したものである(とは言え決して大したものではなく、この程度のものであれば多くの哲学研究者が容易に思い付く、かもしれない。)。

たとえば、私の右肩から先の右腕全体が欠損し、これを義手に代えたとする。この義手は私の身体なのだろうか。では、仮にこの義手が、木製で、関節が無く、マジックハンドのように二股(要するに二本指)の形状、つまり一般に想定される身体機関としての腕と外見・機能等がまるで異なるとしたら。「これもお前の身体だ」と言われると、どうにも不思議な気持ちになりそうではある。

それでは、欠損した右腕全体と完全に見た目と機能が同じで、私の意思で自在に動かせる、しかし、無線接続か何かで運用されており、自分の血は流れていない、そんな義手だとして、「これもお前の身体だ」と言われた場合はどうだろうか。先ほどの木製の義手とは別種ながらも、やはり何らか違和感を抱いてしまいそうだ。自分の血がとめどなく循環していることが「身体」にとって重要なのだろうか。

では、欠損した右腕を、右肩から完全に分離した状態で机の上に置いてみる。その上で、机の上にあるその右腕にポンプのような機械を繋げたとする。この右腕は私の身体(右肩)とは一切の物理的な接続性を有していない。ここで、この物理的に分離された右腕が、ポンプのような機械によって血を循環させながら、私の意思と完全に同期させた形で自在に動かせるとしたら。つまりは、私の右腕部分が右肩から分離されて、ドローンのように無線状態で遠隔で生身のごとく意のままに操作ができる上に、やはり私の身体とは物理的接続性を有さない外部のポンプ状の機械によって私の血液がとめどなく循環している状態で机の上に置いてあり、これを私の意思/脳などの遠隔の司令に基づいて運用できるとすれば。「これもお前の身体だ」と言われたとしたら。与件が多い割に、途轍もない違和感がありそうだ。

では最後に、切り離された右腕をそのままの状態で肩に再接続するとしよう。しかしながら、その継ぎ目に新たに厚さ1cm程度の円柱形の機械を埋め込む。つがいとして埋め込まれた機械は自他に意識されることはなく、血も循環しているし、意のままに動かせる。つまりは、見た目・使用感は欠損以前と全く変わらないとする。すなわち、事実としては確かに厚さ1cmの円柱状の機械が私の右肩に新たに埋め込まれており、再度右肩に接続された右腕は合計で1cm分だけ伸長しているのだが、その変化が自他に一切感得されないとしたら。直感的には欠損後に再接続された右腕は自分の身体であるかのようにも思われもする。少なくともこの機械が無ければ分断された腕を縫合したにすぎないと考える人が多そうではある。とは言え他方で、1cmの円柱状の機械が機械であることにも変わりは無い気がする。右肩と右腕のあいだには機械によって1cm分の物理的な隔たりが生じているわけだが、その隔たりの先にある(再接続された)右腕は、自分の身体のままなのだろうか。しかしながら、仮にこの機械に着脱可能な機能が備えられており、機械及び右腕を肩から外して机の上に置いたとしたら。机の上に置かれた右腕(+つがいの機械1cm)は、自分の身体ではない気もしてくる。その上で、机の上に置かれた右腕を再接続すると、再び同様に自分の身体のように思われてくるのだろうか。それも何か違和感がある。では、このつがいの機械が厚さ30cmだとしたらどうだろうか。では、1cmのままで、常時ウィーンという作動音が鳴るために嫌が応にも埋め込まれていることが自他に感得されるとしたら。ひいては、これが0.01cmだとしたら。

 

上記のような思考実験を詭弁だと思われる人も少なくないだろう。しかしながら、実はそうとも言い切れない。これから高齢者の絶対数が世界的に飛躍的増加を見ていく中で、身体(能力)の補填というのは人類の大きな課題であり、したがって政治・経済の重要な焦点の一つになっていく。にも関わらず、われわれは自分自身の身体の射程すら曖昧にしか理解できていない、否、いい加減にしか考えていないのかもしれないのである。すでにパラリンピアンがオリンピアン以上の結果を出す競技が出てきており、義足等の機能についての議論がなされ始めている。この論点を別の問題にまで敷衍すれば、身体能力の拡張(≠補填)のために自分の生身の身体を意図的に欠損させていいのかという議論にも繋がっていく。さらに敷衍すれば、臓器提供/売買や安楽死、ひいては生命倫理一般にも関係してくる大変奥深く難しい問題だろう。

身体性の何たるかは、もっと身近な問題にも関わってくる。介護が "すべて" ロボットや機械に代替されていいのか(あるいは、完全に人間にしか思われないインターフェースのロボットや機械に代替させることにどういった問題があり得るのか。)。遺骨はなぜ大事なのか(墓をバーチャル化したいというニーズは徐々にだが確実に拡大している。個人的には強い違和感があるが。)。脳という身体に快楽物質を注入して体感の幸福度を向上させることは是認されるのか(映画「マトリックス」は20年以上前にこの問題も提起している大変哲学的な作品でもある。)。そもそも心と身体の関係とはどういったものなのか(私の身体を首から上と下とで切り離したとしたら、心は、脳がある首から上か、心臓がある首から下か、どちらに存在するのか。仮に意識が脳にあるという立場に立つにせよ、脳の意識が腸や皮膚等のほかの身体器官によって形成されるのだとすれば、ここでいう「意識」とは何なのか。)。

 

閑話休題。要するに、われわれは、自分の身体の射程すら曖昧なままに、自分と他人が(物理的/身体的に)別個のものであると当然に想定しているらしいのである。これは時間でも数字でも同様で、我々は現在という完全に独立した一時点の存在や、1ないし0ないし-1といった数の存在を当然に前提しているが、多くの人間はこれらの定義や射程を考えることをしないまま生きている。なお、「無」が「ある」ということの発見、つまりゼロの発見は数の発明後にインドで "発見" されたものであり、紛れもなく人類の思想的革命の一つと言えるだろうし、これは多くの中学・高校で学習する。だが、当の私も「ゼロの何たるか」を厳密には(というか全く)説明できない。

自己-身体の議論に戻ろう。感染症が目の前の他人から自分に伝染することも少なくないように、ひいては、私の体内の空気なり酸素なりは先ほどまで一緒にいた人間の体内にあったものかもしれない。もちろん、物理学的ないし化学的には狭義の体組成そのものに影響しないのかもしれないが、これはあくまで比喩として御理解いただきたい。

自社と他社、自国と他国の話も、セミマクロな話で考えれば一層のことに了解可能性が高いだろう。資本主義下ではサプライチェーンを支える他社や顧客たる他社がいなければ自社の存続が危ぶまれることとなる。半導体不足は建造中のタワマンのエレベーターの納入にまで影響を与えているし、こうして不動産の引渡しが遅滞すれば投資の需給バランスも崩れてきてしまう。ウクライナ・ロシア間の戦争は世界のエネルギー需給バランスを揺らがせたばかりか、欧州内外での金融資産の移転の加速化を生じさせてもいる。

そもそも、われわれは遺伝子から唾液に至るまでの様々な次元で、身体(とは何なのだろうか...)の構成要素を他人と共有している。自分の身体が自己という存在として絶対的に独立して存在しているという暗黙の前提は、実は、あまりに偏ったものであり得る。この文脈において、いわゆる個人主義が個人という絶対的/独立的な存在を措定していることについて、(政治的な意味ではなく概念的な意味で)疑念を投げ掛ける人間を愚かと言えるだろうか。そもそも、個人主義における「個人」とは一体何なのだろうか。

 

ここまで身体論を主軸に話をかなり発散させてきたが、要は、「自分」と「それ以外」を明確に分けるという規範自体に原義的な誤謬や実際的な限界がある、という立場も採り得る、という話をしてきた。

環境問題/気候変動は上記の立場に立ちやすい社会課題の好例だろう。環境や気候の変化は今日明日の数日スパンではなく、数十年ひいては数百年(そしてそれ以上)の長期スパンで漸次的に進行していく。「いま」の「自分」だけ考える姿勢では、「未来」の「世代」や「地球」が大変なことになるということは、多くの人にとって想像に難くない(たとえそれが、まさに昨今の軽薄なブームよろしく、「なんとなく」的な雰囲気論だとしても。)。夏の酷暑やスコールといった具体的な共通経験があれば、この課題意識は共有されやすくなる。これらは、上記したように暗黙に前提されがちな自分-他者、現在-未来といった類の二元的規範とは、逆方向の力学を有している。

余談となるが、具体的な経験として感得・共有されにくいものとして、論壇の劣化や世代単位での思考力等の低下といった類のものが挙げられるだろう。これらは定性的すぎる上にそもそも善悪や美醜の評価フレームの形成及び敷衍が極めて難しい。政策についてはEBPMはじめ定量的評価を進める流れもあるが、たとえば政党への評価や検証については、当面、フレームすら準備されそうにもない。あくまで一般論として述べるが、こういった評価フレームの形成及び敷衍が難しい分野では正当な評価に基づく新陳代謝が作用しにくく、その帰結として、既存のパワープレーヤーが世論の形成や誘導を担いやすい構図が固定化しやすくもあり、つまりは、一度パワープレーヤーに成ればその座に居座り続きやすい構造的欠陥がある。善悪や美醜の評価フレームの設定主体たり得るのが実際的に当該パワープレーヤーのみであれば、当該フレームを都合よく設計することもできるし、その設計そのものを留保することもできてしまうからだ。

 

さて、個人主義や資本主義といった今日日においても支配的な思想に通底する「自分」と「それ以外」を明確に分ける、さらに言えば、物事を部分に分けて部分/要素に還元していく(要素還元主義 Reductionism)という規範は、一体どこから来たのだろうか。

まず浮かぶのはデカルトの主客二元論だが、プラトンの二元論、創造主-被造物というキリスト教の教義や教父哲学、これらとも密接に関連する新プラトン主義、カントのカテゴリー論やヘーゲルの歴史哲学など(まさに枚挙に暇がない)も見方によってはそのような規範を共有しているとも言えるし、或いは内破を志向している面も当然にあるので、やはり単純化はできない。西洋が二元論的な価値規範の世界であると断じるのは誤謬が多すぎるが(そもそも「西洋とは何なのか」という問いからして、数え切れない程の研究者が生涯を賭してきたわけで。)。人間の思想史や思想潮流というのはある日突然新たな何かが発生するといった類のものではなく、智の営為の蓄積、社会の(しばしば数百年に跨る)ひずみへの反作用、あるいは、物理学や数学をはじめとする(今では「哲学」という学問領域ではないとされることが多くなってしまった)他の学問領域での革新など、様々なものによって生じるものにほかならず、到底単純化できるわけがない。

 

しかしながら、そんな中で、たとえば東洋哲学/東洋思想、その中でも仏教思想/仏教規範/仏教哲学(etc)は、少なくとも上記してきた(部分ないし側面としての)思想潮流ほどには、物事を部分に分けていくという要素還元主義 Reductionism的な色合いが希薄だったものと考えることぐらいはできるだろう。縁起の思想というのはまさにその好例で、あらゆるものごとが相互に依存して成立しているという立場にある。産業革命以降の西洋が自然を観察/改変の対象として規定を強化していったのとは対照的に、仏教圏の多くにおいて、少なくとも狭義では、自然はいわば日常に極めて密着した生活様式それ自体として人間の生と一体化していたとも読める(とは言え、そもそも産業革命自体が「西洋」の発明なので、仏教圏にその種の精神性が希薄だったという指摘自体が実はトートロジー(同義反復)ではあるのだが...)。文化圏・政治圏・宗教圏の形成時期において、建築様式の主流が石造だったか木造だったか、食料調達の主流が農耕牧畜だったか狩猟採集だったか、唯一神/絶対神を信仰したか、多神/輪廻/転生を信仰したか、といったの対比も、もちろん二元的に語り切ることはできないが、大変に興味深くもある(本稿は総論を述べているに過ぎないので具体には踏み込まない。)。

そして、日本の禅哲学においては、心身の別や自他の別を超えた境地が「悟り」と呼ばれて志向されてきた(この境地だけが「悟り」ではないのだが。)。前者については、日本の禅哲学の祖の一人であり、世界的に最も高名かつ尊敬されている日本の哲学者と言って差し障りないであろう道元禅師の主著について、私の哲学論文が先月公開されているので、御関心がおありの方はどうか御一読頂きたい。また、道元禅師以降の1,000年弱にわたって、日本の哲学はしばしば、主体と客体の別の超克を志向してきたが、このことも下記の論文の結論部分で軽く触れているので、適宜参照されたい。

 

「個人」や「自社」や「自国」といった単位の絶対的独立性を暗黙にも想定する、或いはこれらの最小単位への何らかの収斂・回収に向けた力学を有する思想性の根幹にある規範(すなわち二元論Dichotomyや要素還元主義Reductionism)は、ここ数百年においては支配的であり続けてきたかもしれないが、人類史全体で見ればあくまで一つの立場でしかない。そして、この立場が正/善であるという価値規範自体は、究極的には拠り所を持たない。支配的であるから正/善である、或いは、正/善であるからこそ支配的たり得た、というのは、いずれもやはりトートロジー(同義反復)の域を出ず、その正当性の根拠を提示しているとは言えない。これはまさに「伝統は長い歴史を有する伝統なのだから、伝統としての貴重な価値を持つのだ」といった類の言説と構図を共有している。すなわち、何も言えていないに等しい。

21世紀は、いわば非西洋世界がようやく本格的に勃興してきた時代と言えるだろう。小難しい話ではない。単純に、人口動態が大きく変化しており、経済域の脱中心化・多極化が進んでいる。そして、これからの時代はこれまで以上に、経済の中心の移行が加速化していく。直截に言えば、生産拠点も市場も、性質の議論をさて置いてなお、物理的にインド・アフリカに移行していく。それもこれまでの数十年の比ではない速度で。

そんな中で、これまでの資本主義という土俵上で支配的だった経済勢力の規範がこれまで通りに通用していくかと問われれば、おそらくその可能性は低いのではないだろうか。そうであるとしたら、「個人」や「自社」や「自国」といった単位へ収斂・回収していく力学の根底にある二元論Dichotomyや要素還元主義 Reductionismに対する寄り戻し的な潮流が生じてくるのだろうか。或いは、まさに今われわれが見せられているSDGsなどの運動論こそが、すでにその萌芽なのだろうか。ここで、冒頭に記した「結論染みたもの」を再掲しておく。

SDGsやSustainabilityまわりの議論は、個人主義や資本主義といった今日日において支配的な思想に通底する根幹の西洋的規範、すなわち二元論(Dualism/Dichotomy)や要素還元主義(Reductionism)等の超克を志向する思想潮流の(再度の)萌芽かもしれない。

仮に上記の立場に立つとすれば、SDGsは、その達成目標である2030年以降も、別の設計/設定主体によって別の名称を冠されながら、上記した市場環境の変化に相まって資本主義という規範そのものを変容させていくのだろうか。或いは、二元論Dichotomyや要素還元主義 Reductionismは一つの真理であり、したがって、SDGsも、戦後の有象無象の思想運動のように敗北を喫するかのだろうか。それとも、僅かながらの価値規範の変化を人類にもたらすに終始した上で、ひいては100年後も200年後も人類はこれらの規範・真理に依拠して存在しているのだろうか。仮にそうなりそうなのだとしても、それでよいのだろうか。 それともよくないのだろうか。この是非は誰がどういう基準で議論し、決定し、実行するのだろうか。国連やOECDのままなのだろうか。インドやアフリカに国連やOECDに代わるイニシアチブが組成され、同等以上の影響力を持つのだろうか。それは同種の構造の再生産を避けられるのだろうか。避けられるにせよどの方向に向かうのだろうか。終わらない。。。これぞ哲学。。。(?)

 

SDGsのピンバッジをジャケットに付けている人を弾劾する気もなければ、"国際的" な基準/標準を制定しこれに紐づく評価等を産業にするという金融資本主義の伝統的構造に思想的に抗うもつもりもなければ、MDGsの失敗を受けてなお地球や人類の未来のために尽力し続けてきた心ある知識人たちへの敬意を抱かないわけでもない。だが、本当に重要なのは、そもそもわれわれが人類の一員および全体として、何のために何をしたい/するべきだと考えるのか、に尽きるのではないか。こう言うと急に(相当)陳腐に聞こえてしまうし、かつ、所詮は主体は「個人」のままではないか、と言われればその通りなのだが、それでも個人的には、やはり日本や日本の哲学が担える余地も小さくないと信じている。少なくとも二元論Dichotomyや今日の時代における要素還元主義Reductionismといった規範を前提した今日日の思想潮流に一石を投じ得る気もしている。だからこそ禅哲学の現代的適用というテーマを掲げて研究しつつ、深夜にこんな文章を書き綴っている。

学問関心と社会課題が交わるところを自分なりに同定できているというのはとても幸運だと感じているし、それなりの矜持と責任感も有しているつもりだが、こう書くと幸運や矜持や責任の何たるかを考えずにはいられなくなってくる。或いは、実際問題として、私のこれらの学問関心や矜持や責任感のみならず、多くの人のさまざまな思想や課題意識や利害を収斂させてくれるような同時代的主題として、SDGsは至る所で大変有効に機能しているのかもしれない。だとすれば、その側面については、なんとなく肯定できそうな心持ちにもなれそうではあるが、この点についても今しばらく考えていきたい。【了】

 

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