野村将揮 | 政策と経営と哲学のあいだ

京都/ハーバードを妻子&愛犬と散歩しながら考えたことの断章

哲学的に考えてみる: Z世代のメディア活躍と大人の責任

批判的な響きを伴う言葉ひとつ口にするだけで、たとえ文意や趣旨が攻撃的でなくとも、揚げ足取りや言葉狩りといった反撃(というか先制攻撃)に遭うという喜劇染みた社会構造がすでに完成しつつある。この社会構造と相補的に、いわゆるZ世代と銘打たれた若い世代がマスメディアに登場することが一般化してきた。

 

「世界の潮流として、若者の意見に耳を傾け、採り入れることになっているらしい。」「だが、若者が上の世代を真正面から批判すると炎上してしまう。」「とは言え、若者は、着眼や流行理解はまだしも、実務上の経験や知見にはどうしても限界がある。」「それなら、とりあえず未来への明るい展望を笑顔で話してくれる若者をキャスティングしよう。」

こうして、誰か一人の具体の悪意や蔑視に回収され得ない構造的力学で、キラキラした美辞麗句を屈託なく述べてくれる "若者らしい若者" が招聘されるに至る。否、すでにこの種の議論さえも飛ばされている現状も漏れ聞こえてくる。「とりあえず誰か若い人出しといてよ。なんかソーシャルな活動してるの。ダイバーシティでも政治参加でも、なんでもいいから。起業とか留学とかしてればなおよし。」

 

こうして作られた舞台で語られる世界は、胸焼けするほどに美しい。そして残念ながら、大人の都合で采配された "われわれ世代の代表" が目を輝かせておとぎ話のような世界をどれだけ語ろうとも、文字通り血反吐を吐きながら生きている同世代にはこれを信じる余裕も無い。"美しい世界" がスマホやテレビの画面上に映されているのを幾度と見せつけられようとも、泥と血と涙にまみれた日々は当然に続いていく。そもそも人間の生とは、大半の場合において、泥臭く、苦しく、悲しく、無様で、ゆえに尊いものの蓄積にほかならない。それは孤独かもしれないし、貧困かもしれない。失恋のショックかもしれないし、受験のトラウマかもしれない。もちろん、社会を(真の意味で、すなわち具体的・実際的に)変革するための仕事や取組かもしれない。スポットライトが届かない暗い自室やオフィスこそが今の自分の世界だ、泥水も血も涙も啜りながら生きるほかない、という矜持もあるだろう。

 

自分たちの世代を代表してくれている "若者らしい若者" が上の世代に語る、あまりに浮世離れした "美しい世界"。これに抗暴する仕方は、大別すれば3つになるだろう。無視する。自分が結果を出す。そして、この代弁者を表に裏に叩く。いずれにおいても "若者らしくない若者" が増産されていくことになるのだが、無視することと結果を出すことはいわば自己完結的に済ませられるのでまだ良い方だろう。だが、叩くこととなると話はまるで異なる。具体の対象が設定されたルサンチマンの放出は、自他に深い傷を残し得る。

「講演活動しかしてないくせに社会貢献しているような顔をするな。」「法人登記しただけで起業家/経営者を名乗るな。」「親が金持ちだったから留学できただけのくせに努力話や苦労話をするな。」「その程度の実績で研究者を名乗るな。」「一般社団法人ひとつ作っただけで業界を代弁するな。」

もはや見慣れてしまいつつあるこの類の言葉を投げ付ける人間の胸中には、一体何があるのだろうか。この類の糾弾を乱発することで救われているのだろうか。この類の言葉を匿名の不特定多数から投げ付けられた人間は、一体どのように受け止めればいいのだろうか。この類の糾弾を予め覚悟して表舞台に立ったのだろうか。覚悟が無かったとしたら、その責任や瑕疵を本人に問えるのだろうか。覚悟があったとしたら、この種の糾弾をも甘受すべきものとみなされるのだろうか。

 

そもそも、叩く方にも、叩かれる方にも、本来的には非は無かったはずではないか。人間は自分が断罪されてきた仕方で他人を断罪する。何かが自分の心の琴線に触れる場合、自然、そこに琴線が張られるに至った何らか理由つまり経験や経緯がある。そして、その理由は大半の場合において、画面の中で自分たちの世代を代表してくれている "若者らしい若者"とは直接的には無関係だろう。にも関わらずそういった人を叩いてしまうのだとしたら、それは、蕎麦アレルギーの人がテレビで蕎麦を食べる芸能人を見て激昂するのと同様の構図ではないか。

「俺は蕎麦を食べられないのに、なんでコイツは公共電波でのうのうと蕎麦を食べてやがるんだ。こんなことが許されていいのか。コイツに蕎麦を食う資格があるのか。蕎麦アレルギーの人間の気持ちを考えていないのではないか。」

こんな話さえも冗談ではない社会が到来しつつあるようで、これこそ紛れもなく社会的病理なように思われてならない。そして、こんな支離滅裂な難癖であっても、言われた方が酷く傷付くことも数多ある。ひいては、こうして傷付けられた過去に由来するルサンチマンが、現在そして他者をも侵蝕していく仕方で、上記と同様のプロセスを再生産していくのだとしたら。これこそひとえに悪循環だろう。

 

大人が本当に尽力すべきは、自分たちの都合で浅慮にも "若者" を起用することではなく、この種の呪詛の連鎖を断ち切ることなのではないか。そのためには、このような呪詛の対象となり得る舞台設定について、努めて慎重を期すべきではないか。大人の責任を以て、世界を過度に美化させないこと。そして、抗暴そのものの必要性をも解消していくこと。この先にある世界の方が本当の意味でよほど現実的に美しいだろう。気候変動も、SDGsも、ダイバーシティも、転職/副業も、流行り染みたテーマの大半において、これらの主題自体の是非はさて置き、その演出方法や舞台設定には大人の根深い欺瞞と無責任がある。表出しにくい若年世代への侮蔑や軽視を看破し、その将来に責任ある引導を静かにくれてやることこそが、この国を支えてきた良き大人たちに求められる理性的態度であるはずだ。そして、このような態度が準備されてようやくに、若者世代と社会の未来を本気で討議し、何かに結実させていけるのではないか。無論、その過程は決しておとぎ話のようなものではなく、泥臭く、苦しく、悲しく、無様で、ゆえに尊いものの蓄積にほかならないだろうし、これを伝えていくのもまた大人の責任だろう。【了】

 

<補遺>宮崎駿監督 引退会見全文より抜粋

  • (...) 基本的に子どもたちに、この世は生きるに値するんだということを伝えるのが自分たちの仕事の根幹になければいけないというふうに思ってきました。
  • (...) 僕は文化人になりたくないんです。僕は町工場のオヤジでして、それは貫きたいと思っています。だから発信しようとか、あまりそういうことは考えない。(...)
  • (...) わたしが仕事をやるということは、一切映画を見ない、テレビを見ないという生活をすることです。ラジオだけ朝はちょっと聴きます。新聞はぱらぱらっと見ますが、あとはまったく見ていません。驚くほど見てないんです。(...)

 

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