野村将揮 | 政策と経営と哲学のあいだ

京都/ハーバードを妻子&愛犬と散歩しながら考えたことの断章

個人主義を超えて: 「本当の自分」という神話と"dividual"(分人)

人生100年時代と言われ始めて久しいが、平均寿命が延伸を続ける今日日においても、日本はまだまだ「自己」について考える機会も時間総量も少ないと感じる。

「自己」と括弧を付したのは、一般に高校時代や大学時代に考えられることが多い将来の夢ややりたいこと的なサムシングと区別したかったからで、換言すれば、「自己という概念それ自体がどういったものか」を考える機会があまりに少ない。

 

「(どこかに)本当の自分というものが存在している」と信じてそれを追究していくという姿勢や志向性それ自体が、実は一つの立場にほかならない。

自分はこのような生まれ育ちで、このような原体験を経て、このようなことをやって生きていきたいと思っている、ひいては、このようなライフ・ミッション(人生を賭けるべき役割や価値、哲学や文学の世界ではレゾンデートル(存在理由)という言葉の方が親しみ深い)を自覚するに至り、その実現のために生きています、といったようなパッケージ化とその提示は、特に米国が好むStory tellingと呼ばれる手法(ちなみに米国の大学入試ではエッセイや面接でこれが強く求められる)に、相当大きな影響を受けている。

言わずもがな、日本の就活でも同様の手法が採用されているのだけど、適用のさせ方があまりに悲惨で、チョコレートケーキにカレーをかけてぐちゃぐちゃに混ぜたものを「創作料理」「多様性」「イノベーション」と名付けて声高に叫んでいるのを見せられている心持ちになる。

 

Story tellingの中で語られる物語は、当然ながら、フィクションでしかない。何十年と生きてきた時間を自分の記憶や主観を頼りにA4用紙数枚程度の文章や数十分程度の受け応えに収斂させるのだから、捨象されるものや零れ落ちるものの方が圧倒的に(そして絶望的に)多い。

また、フィクション(story)を組む際にパーツとして用いられ得るのは、以前から特別に内面化され自己規定に用いられていたセルフイメージや規範意識に過ぎないので、結果的にはこれらにしがみ付く心性を強化してしまうことになりやすい。

大変恐ろしいことに、自分という存在は、拠り所を有さないまま自律強化的に、人生の転機の体裁を持つ外的作用によって、内的にも社会的にも固定化され続けていく。

 

究極的には、そのフィクション自体の強度と、これに相まってのフィクションへの信頼(信仰)の強度が高ければ高いほど、大きなことを成し遂げやすいのだと思う(論理的には何も言えていないのだが、因子としての重要度を指摘している。)。

「俺は総理大臣になる!」と口にする小学生は大勢いるが、その理由となるバックグラウンドや原体験が強烈であればあるほど、そして、これが実現できる且つ実現されるべきだと信じる力が強く長く続くほど、基礎能力の議論をさて置けば、その実現可能性が高いのは道理だろう。

これはプロスポーツ選手でも幸せな家庭でも構造的には変わらないし、もちろん、どんなものであろうと実現するのは難しい。

 

僕自身は富山の片田舎の母子家庭育ちだけども、「全国の母子家庭のために活動したい」とめちゃくちゃ強く思ったことはない。

もちろん、母子家庭を取り巻く環境が改善された方がいいとは思っているのだが、それは父子家庭であろうが、両親がいるけれどもまた別の事情を抱えている家庭であろうが、外国籍の親を有する家庭であろうが、というか家族構成という視点にこだわること無く、誰もが少しでもよりよい環境で生きていければよりよいと一般論として包括的に思っている(だから全体の奉仕者たる官僚になった。)。

同時にまた、「母子家庭育ち」であるということを「原体験」として自己定義した上で対外的に提示しつつ、なんらかの活動に取り組んでいる人も大勢いるだろうし、それも当然に尊いことだと思う。

 

誰においても、どのようなフィクションにおいても、問題になってくるのはひとえに純度だろう。

端的に言えば、本当にそれが「原体験」なのか。「ライフ・ミッション」「レゾンデートル(存在理由)」なのか。誇張や虚飾は(ゼロには出来ないにしても)どの程度まで削ぎ落とされているか。フィクションとして打ち立てられ、そして自分でも信じざるをえなくなった物語の中に、エゴや打算がどこまで含まれているのか。そして少なくとも、その程度について自覚的であるのか。また、この程度をゼロにしようとする無意味かつ無限にも思える苦しい努力をどこまで継続できるのか。

これらの点への誠実さを欠くと、最終的にはどこかで折れるか倒れてしまう。ベンチャー企業が大きなビジョンやミッションを掲げて上場を果たすも、それらの純度が(実は)足りておらず、上場後にどんどん会社の足腰が弱まっていく、「上場ゴール」とも呼ばれる現象が好例だろう。

 

純度の問題は、大学受験でも就職でも転職でも、同様に重要であり続ける。自分の人生の意義や存在理由をランキングものや組織理念を語る美辞麗句に仮託しても、純度が高くなければ続かない。というか、続いてしまっても、それは不幸でしかないし、究極的には自分で気が付いてしまう。自分の人生、これでいいんだっけ、と。

20年くらい前までは、(良し悪しの議論は別にして)社会通念上、この仮託先の最たるものとして「家庭」が君臨していたように思われる。

「子どもや家族のために」という物語は、多くの人類を支えてきたし今も支えているが、技術潮流とこれに基づくコミュニケーションのあり方の根本的な変容が「家庭」という社会制度に揺さぶりを掛けている(家庭や地縁共同体、地場企業といったもの以外に趣味趣向を分かち合いそして生活の糧を得られる選択肢が爆発的に増大している。)。

この傾向が一層加速化していくことが明白なので、巡り巡って、自分自身を支えている或いは縛っているフィクションの純度が、これまでのどの時代よりも痛切に問われるようになってくるだろう。

たとえば、肌の色や目の色はおろか、顔つきが似ていることが、ひいては血縁の有無が、或いは物理的距離が、どこまで大切なのか、という問いが、文字通り肉薄してくるのである。

 

処方箋というか突破口となり得るのは、やはり”dividual”(分人)という概念だろう。元々は現代フランスの哲学者ジル・ドゥルーズが用いた表現だが、そこから作家の平野啓一郎が敷衍しており、名著『私とは何か ー「個人」から「分人」へ』 (講談社現代新書)は一読の価値がある。

ものすごく簡単に言うと、本当の自分というものがどこかにいるという前提で自分という存在を突き詰めていく従来の「自己」の議論/考え方から少し距離を置いて、自分が持つ様々なキャラクター/側面(これを分人と呼ぶ)を総体として捉える、もっと言うと、その構成比率として自身を捉えるという考え方である。

職場での自分、友人と酒を飲んでいるときの自分、恋人といるときの自分、一人で散歩しているときの自分、など沢山の(厳密に言えば無数の)自分の在り方があり、その全てが自分であり、その構成比率や割合が相対として自分である、といったところだろうか。

カレーライスはルーとライスから成るが、一言でルーと言っても無数のスパイスや数多くの野菜が含まれているし、ライスも米の一粒一粒が違う形をしているし、種類もタイ米から日本米まで幅広く、炊き方や水の量で様々な食感や風味を見せてくれるのであり、これら全ての側面や可能性を引っくるめて総体として「俺はカレーライスだ!」と受け容れるのに近いかもしれない。

あまり上手いこと言えてないし実はちょっと違うのだが、というか、そもそもは分人について最近考える機会が多かったので、より直接的に関係する思索を長々と書きたかったのだけど、お腹が空いたのでカレーを食べに行くことにする。。【了】

 

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