野村将揮 | 政策と経営と哲学のあいだ

京都/ハーバードを妻子&愛犬と散歩しながら考えたことの断章

ありえた未来についての哲学的省察

中学校の国語の教科書にあった、「人生はからくりに満ちている。」という星野道夫の言葉が、なぜか15年以上にわたって心に刻まれて残っている。

最近、起こり得た未来について考えることが多い。いつかは死ぬ中で、これからの自分の未来を何が規定し得るのか/自分の未来が何によって規定され得るのかをよく考える。もしかしたら、ようやく、未来を考えられるだけの過去が蓄積されてきたのかもしれない。

 

決定論みたいな話はここ数年ずっと考えてきた。Physicalismという一つの主義があるのだけど、全ての事象がいわば物理学的な法則や方法論によって様々な物質・反応・運動といったような要素に還元可能であるという立場に立てば、1秒後の気温はすでに決定されているし、1分後の天気も決定されているということになる。

これを延々と続ける&敷衍していけば、自分の未来は(感情や情動と呼ばれている生体反応(厳密にはこの認知からしてどうよ、という議論はあるけど)も含めて)すでに決定されているということになる。

映画「バタフライ・エフェクト」や「風が吹けば桶屋が儲かる」という言葉を敷衍して考えれば、当然に全ての物質/存在(ひいては非-存在)が相互に作用し合って成立しているわけで、したがって、現在は過去によって決定されており、この文脈において未来も現在(すなわち過去)によって決定されているという話になってくる(現在とは何かみたいな話はハイデガーはじめ多くの哲学者が取り組んできた主題だが、ここでは割愛する。)。

 

この種のことは過去に遡る議論の方がより直感的に納得可能だろう。自分の身体的特徴から性格特性に至るまでが自分の意志から離れたところ、つまりは遺伝的要因だとか環境要因だとかに規定される、みたいな議論は耳タコなわけで、これを300世代分ぐらい?繰り返しても議論の根本的な性質は変わらない(言語や規範意識の有無みたいな差異はあれども、この次元の議論においてはあまりに瑣末な話だろう)。

つまりは、究極的には300世代前のご先祖様によって(も)自分の生が規定されているわけで、そして、仮に自分という存在があると仮定しても、それはこの連綿とした潮流の一部を成すだけなのだろう。

また、この潮流が面的/立体的な拡がりを持って相互に作用し合って今この瞬間が形成されている(に過ぎない)、みたいな悲劇的なロマンシズムにも容易に浸れてしまう。

こうして究極的には、「もうすでに」全てが決まっているという立場(決定論 Determinism)に至ってしまい得る。

ちなみに僕はこの文脈においてジャレド・ダイヤモンドの『銃・病原菌・鉄』という名著がおそろしく重要な意味を持つのだと1年に30回ぐらいは声高に叫んでいる。個人や共同体の現在(したがって未来)を規定する構造的要因を突き詰めていくと遥か昔に形成された大陸の形や気候に行き当たるという視点は、神や仏の存在を信じるかどうかという立場を超えて、人間存在の手を離れた次元に我々をいざなう。これはある意味では一つの悲劇であり、そして救済だと思っている。

 

他方で、量子力学の世界ではこの種の議論の反駁となり得る実験結果・理論が存在するらしい。二重スリット実験に基づくコペンハーゲン解釈というものだそうで、すごくざっくりした概要を尊敬する物理学者数名に教えてもらった程度なので詳術は避けるが、この実験結果を以ていわゆる「不確実性」というか"randomness"みたいなものの存在をこの現実世界(などと言うとフッサール以降の現象学的潮流には反し得るのだけど)において信じられる可能性を見出せる。

余談ながら、"randomness"や無限性というのはAIの領域でも付きまとう重要な問いではある。変数それ自体やアルゴリズムのノード/レイヤーを自動生成するにせよ、究極的には、当初の規定による限界を原義的に突破できない(いわゆる「フレーム問題」。)。麺料理の定義をどこまでも拡張できる性質を伴わせても、麺があってこそ麺料理だという原義を超えられないのに似ている(似ていない。)。

 

閑話休題。つまりは、少なくとも今日この瞬間においては、物理学的世界観においても完全な"決定性"は存在しないと考えられるのであって、ここでようやく自由意志の存在を信じるに至れるということになる。

不完全性定理が好例ながら、哲学でも近しいことが言われてきたわけだけど、何にせよ、自分の意志によって自分の未来を決定する、その自由が(ゼロではないという意味で)存在するらしい、という祈りに似た何かをようやく抱けるに至る。

 

自由意志の所在や政治権力の作用(フーコーの生権力、つまり、暴力の独占主体として人を殺し得るという権力とは別種の、人を生かす≒どう生かすかに関する権力。)というのは、民主主義のみならず社会全般(≠社会制度全般)において紛れもなく核心だし、それ以上に、「自分の人生における自分の意思決定が自分の責任であると自分で考える」という価値規範の礎になり得る。

というか、この礎を欠いたこの種の姿勢は拠り所を欠いたものにほかならず、なんというか真実性とでも称され得る何かから遠く離れているように思われてしまう。

自分とは何かを考えるときには自由意志の問題を避けては通れないし、自由意志の問題を考えずに自分という主格(としての人格)を想定する姿勢も、到底是認され得ない。

ちなみにこの議論は当然に身体論にも及んでいく。自分というものが存在するとしたときに、どこまでが自分か、たとえば完全に自由に動かせる義手や義足は身体か、あるいは一切動かせない/機能しない/物理的に切り離された器官は身体か、といった話は、高齢者の絶対数が世界全体で爆増していく今後数十年ではめちゃくちゃ大事なトピックなんだけど、これもまた別の機会に。

 

そもそも自分というものが何なのか/そもそも存在するのか、みたいな議論は、決定論とは別次元に成立する。

今日日に及ぶまで支配的であり続けている西洋的個人主義自体が一つの思想であり立場でしかなく、また、この種の西洋規範が「東洋思想とは根幹から異なる」といった類の言説がなされる足場として前提されている枠組み自体が極めて西洋的でもある(至極単純化すればデカルト以降の主客二元論に基づいている。これは遡ればプラトンは勿論ひいては宗教規範に絶対神を有するかどうかとかいう話になると思っているのだけど、論文化するほどの気合が無いのは不徳の致すところでござる...)。

 

これは実はとても大事というか致命的な話で、ある主題を取り扱うべきだとなんとなく思っていても、その見方自体に問題というか偏向があるらしく、かつその主題や偏向を評価する規範自体が偏向している可能性もあるらしい、と延々と続いていくので、めんどくさくなって考えるのをやめてしまう。

余談ながら、この種の倒錯は実社会でも相当頻度で発生している。特にポリコレまわりは拠り所を欠きがちながら、拠り所つまり論拠が不在なので、議論が大変難しくなるという構造的な課題もある。

 

そもそもで数学や物理学もその完全な完成(tautologyだけど)を見ない限りはその特権性が完全に担保されるものではないわけで、そうだとすれば論理的に当然の帰結としてPhysicalism自体が一つの立場であるという謗りを免れない(コペンハーゲン解釈を引き合いに出して自由意志の所在を信じ得るとかヌカしてる僕が言うのもなんやねんという話やけど...。)

「科学的/論理的に正しい」という判断・通念・社会的合意さえも、究極的に突き詰めればあくまで(現存の人類の)主観による蓋然性の程度の判断だと捉えられ得るわけで、その立場に立てば、科学や論理といった信仰そのものも主観的なものの範疇を超えようがないことになってしまう。

この次元においては、100%真でなければ真とは言えない。そもそも真理とか真実とかいうのは原義的にそういうものだろう。(ちなみに僕自身はApple製品で生活を固めてるし毎日チャートと睨めっこしながら投資判断してるし漢方よりも錠剤を飲む頻度の方が10倍以上高いし実家が浄土宗だという理由で祖父母の墓参りに行ったり神社でよくおみくじを引く程度の信仰心しか持ち合わせていないのだけど、そういう問題を語っているのではないよ。)

 

上記したように、この各立場の正統性や妥当性を程度問題で評価しようとするときにこそ、西洋規範もまた拠り所を欠いた一つの信条でしかないという「事実」が途方もなく大事なはずなのに、この点は意外に真正面から議論されない。

というか、これも上記したように、そもそも議論の枠組みが無い(設定しようにも根本から倒錯する)。いわば、「竹刀で人を叩くなんて暴力的で時代錯誤なので、竹刀を用いない剣道を考案しよう!」みたいな話になってくる。それは剣道なのか、そもそも剣道とは何で、剣道であるかどうかは誰が判断するのか、何を以て判断するのか、その判断の正統性や妥当性を支えるものは何なのか、と続いていってしまう。そもそも、そうまでして剣道を残す「べき」なの?残し「たい」の?その「べき/たい」って何?みたいな。

 

とは言え、こういう極限に曖昧な次元での概念の交錯の中で、民主主義だとか資本主義だとかはもちろん、権力、権利、貨幣、価値、意味、生、死、神、みたいな概念が生まれてきた(というか、結果論として根付いてきた)のだと思う。

ゼロの発見、虚数の設定、憲法や人権という思想の発明、など、人類の思想というのは本当にすごい(語彙が貧弱)し、これからもこの種の発見・発明は続いていくのだろう。ちなみに、この話は哲学という営為の意味合いというか価値を語るときによくする話ではあるのだけど、残念ながらなかなか伝わらない。

 

誰かに何かを伝えたくて書いているわけでもないので脈絡も何も無いのだが、そもそもで、折々の自分の決定やその後の自主的な何かが自分の責任であると(言語化されておらずとも)信じられているということ自体が、もしかするととても幸せなことなのかもしれない。

真逆に、そんなことを蒙昧に信じさせられているとしたら、それはもしかするととても不幸なことなのかもしれない。また、この対極的な認知を規定するものとしてのフーコーで言うところの生権力みたいなものがあるとしたら、そもそも権力機構を誰がどう設計するのかみたいな話も出てくる(ので、プラトンの哲人政治みたいな話の奥深さと難しさがうかがえもする。)。

 

そんな中で、自分の中で「もしかしたら、自分の意思決定ひとつでこういう未来もあり得たのかもしれない/これからあり得るのかもしれない」とふと考えてみるにつけて、やはり冒頭の星野道夫の言葉、「人生はからくりに満ちている。」に立ち戻ってきてしまうし、それでいい気もしてきてしまう。

正直言って、中学校の教科書で目にした一節をこうやって思い出せること自体が自分をいい心持ちに運んでくれるのだが、それが何なのかということを考え始めると、上記した事柄まで考えが及んでいってしまう。

とは言えこれでは生きていけないので、「こういう思考というか営為が苦痛ではないのは、たぶん哲学みたいなものが向いているというかそういう人間が自分なのだろう」という体のいい納得感と諦念で自分(とは?)を包みながら、快晴の鴨川沿いを散歩すると、やはりとても気分がいい。これこそが救いだと心から思っている。【了】

 

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