野村将揮 | 政策と経営と哲学のあいだ

京都/ハーバードを妻子&愛犬と散歩しながら考えたことの断章

SDGsブームから考える同時代的主題と構造的課題と

いつの時代においても、いわば「同時代的主題」とでも呼ぶべきものがある。

たとえば1960年代には、ベトナム反戦運動やヒッピー運動が世界的な趨勢を惹起し、日本国内においても岩波進歩派知識人が中心となって一つの時流が形成されていたわけだが、これは時代の常態だろう。

 

平成生まれの私には多分に憚られるが、ある意味での懐古主義を自覚して言えば、この時代の人々の運動はひとえに必死だったらしい。喧々諤々の議論や組織化を経て肥大化した自意識にどの程度の論理的強度や思想的純度があったのかは今や推し量りようも無いが、少なくとも、いまこの時代の人間たちよりは存在を賭した闘争があったのだろうと、様々な手記や独白の類を目にするにつけて感じ入る。

 

CSRという言葉の流行がいつ収束を見たのかも定かでない中、SDGs、ESG、Sustainabilityといった言葉を用いる人の数がここ数年で飛躍的に増大した。

SDGs自体は、国連とこれを取り巻く同時代的知識人たちがMDGsの(未達以前の問題としての)失敗を踏まえて直向きに議論を重ね、多くの国々を巻き込み、ある意味での世界潮流を形成することに成功した稀有な事例だろう。

その過程は方法論としても研究されるべきであろうし、それ以上に、心ある人々の尽力に敬意を評しても罰は当たらないだろう。

しかしながら、SGDsの普及を考えるにあたっては、あらためて、人類における言説それ自体があまりに軽薄に霧散することが当然となった今日日の社会構造を念頭に置く必要がある。「インターネットの発達で」という決まり文句は、私が中学生だった15年前のもので、「SNSの普及で」という文句も、もはや10年前のものである。

今日日の人類は、心情表明を(暗黙にも)求められる機会があまりに多すぎる。また、他者の感情の吐露に(望むと望まざるとに関わらず)晒される機会も、やはりあまりに多すぎる。これは、中学生や高校生が大して親しくもないクラスメートの転校に際して涙する、といったお決まりの情景と同様の構図を有している。自分の立場を誇張してでも表明すべき/したいといったような虚飾や自己欺瞞に溢れたフィクションを吐き出させる、そんな社会装置が増加・増長を続けているように思われてならない。

 

この潮流を断罪する立場にある者がいないにせよ、個人の内面における純度は間違いなく低下を見ている。そして、このような事象が、世界レベルで生じている。Twitterで芸能人の訃報を受けて「泣いた」と全世界に発信している者が無数にいるが、その理由を社会構造や社会潮流の観点で深掘るならば、これは相当に根深いだろう(当然ながら、これは泣いたことが事実かどうかとは別次元の問題である。)。この種のことがコンテンツ化されていることも大変に恐ろしいが、それ以上に、個人の中で自己目的化されているということに、やはり構造的悲劇が見て取れる。

表面的な言説に翻弄される中で、人類の多くが、静かにそして深く思索するという営為を奪われてしまっている。冒頭で記した存在を賭した闘争も、所詮は青い一時的な熱狂だったかもしれないが、いずれにしても、現代は、何に生きて何に死ぬのかということを真正面から考え抜く以前に他人の表面的な吐露に晒され、溺れ、そしてその(浅薄で虚飾性が高い)次元で彷徨うということが常態化している現実が、少なくとも部分的には存在しており、また、今なお増殖・拡張を見ている。

世界平和や環境保全を声高に叫ぶだけでは武器も汚染物質も減らない。あくまで具体に殉ずることができるかどうかであり、翻って逆説的に実行力や気概といったものに先立って、これらを支える思想的基盤や理念といったものの純度と強度といった問題に帰結するだろう。

今の時代に求められる社会変革とは、決して、IT化だのリモートワークだの契約電子化だのといった次元の問題ではない。一人一人が、また、各々が属する多様な共同体が、その思想的基盤や理念を自覚的に育み、共有し、内破し、再構築する、といった人間の営為を快復する或いは再確立する、そのようなことを可能とする一段階さらに高次元な思想的潮流の形成にほかならない。

この際、肝要なのは紛れもなく、今日という時代において既にその境地に到達している先達の存在であり、そういったものに触れると素直に心震えるとともに、背筋を伸ばされる心持ちになる。【了】

 

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