野村将揮 | 政策と経営と哲学のあいだ

京都/ハーバードを妻子&愛犬と散歩しながら考えたことの断章

書くという営為について

一般に文章を書く際には、読み手や受け手が措定されている。それは成就しなかった初恋の相手かもしれないし、いまの好敵手かもしれない。自分にコンプレックスを植え付けた経験や場面かもしれないし、そのコンプレックスを刺激してくるインフルエンサーや世論や社会潮流と呼ばれる何かかもしれない。

 

過去に何度かTwitterのアカウントを作成してみたものの、数日で削除することを繰り返した。Instagramも小っ恥ずかしくて続けられなかった。毎回やめてしまう理由は、どうしても、訴求する対象が空を切ってしまうことだった。

ここで冒頭の話に戻ると、Twitterという言論空間は、(少なくとも数万人のフォロワーがいて有用な商売道具になるまでは)胸中に確かに存在しているはずの個人的な読み手や受け手が隠匿された仕方で、あまりにささやかで些末で陳腐で切実な内面の吐露が織り成されながら耐えず氾濫しており、気恥ずかしくてやってられなかった。朝ドラのご都合主義に曝されてこちらが恥ずかしくなる構図に近しい。

 

親密圏/日常圏がバーチャル上で拡張を続け生身の生活に侵食するようになって久しく、採用も婚活もバーチャル上で進められることが徐々に一般的になってきている(どうでもいいが、「出会い系サイト」を「マッチングアプリ」と言い換えて如何わしさを削ぎ落としたことは、言葉や概念の発明ということの威力を考えさせられる。)。

そんな時流下で、SNSサービスが様々に作られ、独自の文化性つまりは排他性を有した言論空間として小さく乱立するようになった。中学の同窓会と高校の同窓会とでは顔ぶれやトーンがまるで異なるのと同様に、Twitter、Instagram、Facebook、LINEでは、コミュニケーションスタイルも、構築や深化が期待されている関係の性質も、まるで異なっている。実はこれはものすごいことなのだが、意外にあまり指摘されていない。

同窓会を開くには1年間の共通経験が必要だったが、SNSそれ自体の多様化が、共同体や集団にまつわる組成・帰属・放棄の選択肢を大きく広げている。気に入らなければスレッドやグループを抜けるか、ブロックするか、アカウントを削除すればいい(町内会の時代とも、2chの時代とも、大きく掛け離れている。)。

 

だからこそ、媒体とそこにあるコミュニティの性質を自ら選ぶことの重要性が、飛躍的に高まっている。言論空間、古い言い方をすれば論壇というのは、数十年前は、インテリと呼ばれる人たちのみに片足を踏み入れることが許されていた極めて特権的な場だった。インテリに憧れる者は論壇誌などでその空気感や芳しさを作法として学び、自らをそちらに向かわせる努力をした。これは言わずもがな、自らを特権的なものとして規定できる次元の違う特権性によって成立していたものだ。

そして、このような特権的立場を支える土台が、まさに足元からじわじわと腐食されている(これが望ましいかどうかは判断できていない。というか、判断尺度を持ち合わせていない。民主化かもしれないし、知性の瓦解の序章かもしれない。)。

 

何かを伝えたいと思う対象(相手)を有さず、利益のために書き伝えるべき主題も有さない自分が(だからこそ哲学なんかを学問として研究してしまうに至ってしまったのだけども...)、日記でもなく寄稿文でもないフォーマットで何を書くのか、そしてその過程でどういった自己変容を経るのか、という好奇心のもと、自らを実証対象に書き始めたい(したがって、図表はもちろん、小見出しさえも付けることなく散文体を採用している。)。【了】

 

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