野村将揮 | 政策と経営と哲学のあいだ

京都/ハーバードを妻子&愛犬と散歩しながら考えたことの断章

「あいのり」的共同体規範と組織論の未来

人は誰しも言葉を媒介に規範意識を内面化している。また、個別の共同体規範は、特定の思想や志向性を言葉に乗せて構成員に植え付けることで成立する。世間的には「共通言語」や「組織理念」、「モットー」「クレド」など様々な呼ばれ方があるが、性質的には大きく変わらない(指し示す射程や抽象度には結構な差があるにせよ。)。

 

「あいのり」というドキュメンタリー番組がある。見知らぬ男女5,6人がラブワゴンなるピンク色のワゴン車に乗って、世界各国を旅しながら、真実の愛(とは一体どういうものを想定しているのだろうか...)を見つけるというアレである。

数年前からNetflixで新シリーズが制作・放映されている。フジテレビで放送されていた当時は一度とて観たことがなかったのだけど、哲学を齧った上で観てみると、これがなかなか興味深かった。
 
年齢もバックグラウンドも大きく異なる見知らぬ男女が5人,6人と集まれば、否が応にも相性なるものが顕在化してくる。

道路の舗装もままならない異国の地でカメラに追われながら、制作サイドの要請もあってだろうが、個別の人間関係の深化を自己目的化しつつ過ごす日々は、相当にストレスが強いだろう。だからこそ、ひたむきな人間らしさが映し出されていて魅力に感じる視聴者がいるのかもしれない(僕にはわからなかった。)。


あまり気付かれていないかもしれないが、この番組では参加者が「向き合う」という言葉を多用している。

哲学は字義や文脈の解釈をその方法論の一つとするが、何かに「向き合う」という言い方は、考えてみれば、日常生活ではあまり用いない。

ここで、辞書的な定義を離れて「向き合う」という言葉の意味するところを考えてみれば、「直視したくない嫌なもの」「逃げ出したくなるもの」を念頭に置いていることが容易に想像できる。

熱心なアイドルオタクが「僕は聖子ちゃんと向き合っている!!」といった文脈で自己言及するとは考えにくいわけで(文意が論理的に破綻しているように思われてしまう)、あるとすれば、「(辛いけど)聖子ちゃんの引退と向き合う」といった用法だろう。

要するに、「向き合う」という行為の対象は、忌避/嫌悪すべき何かが自然に想定される。

「あいのり」の中で「(他の参加者の)Aさんときちんと向き合う」といったコメントが映し出されるのは、決まって、その発言主体たる参加者がAさんに特別な好意を抱いていない場合である。

上記した例を踏まえて考えれば、たしかに辻褄も合う。Aさんに好意を抱いていれば、「向き合う」という言葉が使われる必然性が無い(もちろん、このAさんがたとえば過去に色々とヤラかしていて、それを受け容れる、といったような場合は別。)。そもそも、「向きあう」理由が発話者たる本人の内に無い。

僕自身の例で言えば、ラーメンが大好きで蕎麦はさほどに好きではないのだが、「蕎麦を好きにならなければ(向き合わなければ)」と思うことが無いのと同様である。別に蕎麦を食べなくても困らないし、そもそもその必要性に迫られることが具体において想定し難い。したがって、これまでの30年あまりの人生において、「そばと向き合う」と思ったことは、少なくとも自分の認識の範疇では、一度とてない。


本人たちとしては「向き合う」必要性が無いはずなのに、日常生活であまり用いられないであろう「向き合う」という言葉が、大半の参加者の口から幾度と発される。

冒頭で述べた規範意識の内面化とは、まさにこういう事象を言う。

邪推するに、制作側に物凄くアツい人がいて、「時間を掛けてお互いのことを知っていく旅だから、好意が無い人ともきちんと “向き合って” ほしい!」と繰り返し伝えていて、これが、自覚されないままに、各参加者が自ら口にする言葉になっているのだろう。全ての参加者との恋愛の可能性を見出さねばならないという志向性(作為性)が、番組をコンテンツとして成立させるために死守されねばならないという制作的背景の中で、そして、制作者と出演者というある種の権力関係とも解釈し得る構図のもとで、「向き合う」という言葉を媒介に規範化されたのではないか。

ちなみに、この「向き合う」語法がシーズンを跨いで見て取れることが、自分の中での上記仮説を強化している。なお、僕が「あいのり」も「バチェラー」も観ているのはコンテンツ潮流を抑えておきたいためで、内容自体は、何というか本当に何でもいいです。
 
規範意識の内面化は、組織や共同体を効率的に運営する手法として極めて有効に機能する。具体的な組織規範が個人の内的規範として固定化されれば、当該個人の言行が組織規範に大きく背く可能性が遥かに低減する。

一方で、「フラットな組織」「ティール組織」「ホラクラシー組織」といった言葉が踊る昨今ながら、意思決定プロセスや人事評価制度といったオペレーション部分に議論が終始している様子を高い頻度で目にする。それ自体が個別の事柄として誤りだとか悪いとか言える立場には無い(判断能力を有さない)のだが、そもそもとして、個人に対して言葉を媒介に組織規範を内面化させるという構図や作用それ自体をどう捉えるか、ということこそが、新しい時代の組織論の端緒たるべきではないかと日々感じてはいる(これはフーコーの生権力の議論に通じていくが本稿では割愛する。)。

 

無論、この先には、契約のあり方や雇用法制と連関する雇用流動性の議論もあれば、個人の規範意識ひいては心とは何か、そこに影響を及ぼす者があるとしてその正当化或いは弾劾を支えるものが何なのかといった議論にも行き着き得る。

後者まで来ると、規範や認識を形成する情報の量・流通速度の飛躍的増大している社会情勢、つまり巷で言うところの情報革命や第四次産業革命まで話が及んでいくので、収拾が付かなくなってくるのだけど、哲学の研究者を自認する以上、しっかり向き合っていきたい。【了】

 

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