野村将揮 | 政策と経営と哲学のあいだ

京都/ハーバードを妻子&愛犬と散歩しながら考えたことの断章

他責性とコンプレックス

誰しも、他人の特定の言葉が幾年にも亘って心に刻まれて苦しむ、といった経験が多少なりともあるのだろうが、その発話者を逆恨みする人間があまりに多いように思われてならない(そして社会潮流としてあまりに増加し増長している)。実際には、具に見れば、これは本来的に倒錯している場合が大半だろう。

 

そもそも、ある言葉が自身の琴線に触れるというのは、原義的に、元よりそこに琴線が張られていたということにほかならない。生育環境等に由来するトラウマやコンプレックス。これらが自身の胸中奥深くに澱み積もり、向き合われることなく化膿した何か。他人のこれを看破する知力と、真正面から指摘する覚悟の痛ましい誠実さ。これを慮れない自身を恥じることが先行すべきではないのか。

 

この種のものが軽視され忌避される世の中においては、化膿した "それ" に表層的には甘美な香しさを纏った泥を塗りたくることが優しさであり礼儀であると誤認され続けていく。弱い者ほどこの種の虚飾に騙されてしまうという構造もある。だが、当然のことながら、肥大化した自意識に切り込みを入れて膿を出さなければ、結局は壊死していくほかない。その化膿した ”何か” から目を背け続けた期間だけ、いつか必ず寄り戻しが来る。この期に及んでなおも他責する人間は、例外なく、周囲を自分の不幸にまで引き摺り降ろしてくる。自己憐憫を纏った暴力にほかならない。

 

無論、トラウマやコンプレックス自体が当人の責任にのみ帰せられるべきではないだろう。自助努力の要請も個別かつ程度の話ではあり一般化できず、そもそも自助努力という思想自体が上記とは別種の暴力性を孕んでいることは言うまでもない。しかしながら、たとえそうであったとしても、自己憐憫に基づく他責性によって他人を自分のトラウマやコンプレックスに回収することが是認される道理は見出されない。あるとすれば、この種のものの解消のために他人の善意に基づく協力を享受する場合だろうが、これは性質的にまるで異なる。この際の主体は他人であり自分ではない。

 

現代社会は、自分自身と向き合う力と他人のまなざしと向き合う力、この双方を感知されることなく収奪していくような社会装置に溢れている。人間そのものを愚弄するかのごとき社会潮流に抗うにも風向きが悪く、結局はこの種の他責性それ自体を断罪し自ら自己を極限まで追い込み "それ" を乗り越えられた経験を持つもの同士での一体感や連帯感に安堵するほかなくなる。人類の分断の最たるものがここに顕在化するのではないか。そして、両極がお互いに「それでいい」と言えてしまうことにこそ、果てしない悲劇性がある。

 

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