野村将揮 | 政策と経営と哲学のあいだ

京都/ハーバードを妻子&愛犬と散歩しながら考えたことの断章

合縁奇縁

自己理解の深化や自己像の刷新は一般に(現在のみならず過去における)他者を介して為されていくが、これとは別次元の話として、畢竟、万事そのあいだにおいて不断に発見・解体・再定義を経た自己らしき何かを受容し愛でてくれる者との出逢いに恵まれるかどうかに尽きるのではないか。メタに言えばこの点に関する諦念にも似た肯定感に拠って立つことこそがこの類の僥倖をもたらす側面もあるはずで、この足場を獲得するまでが身を切るがごとき苦難や苦痛の連続なのだが、これらを超えられるか否かは結果論でしか語られない中で自助努力の問題に帰するのもあまりに暴力的ではある。ささやかな抗暴としてはひとり静かに感謝を捧げるにほかはなく、その先が神なのか仏なのか何なのかを言語による規定を超えて是認できれば、生死を支える精神的支柱に成り得るだろう。宗教的啓示に帰因しない人生や自己存在の肯定のあり方については先達に話を聞いて回る必要がありそうではある。

 

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