野村将揮 | 政策と経営と哲学のあいだ

京都/ハーバードを妻子&愛犬と散歩しながら考えたことの断章

こんなどうでもいい世の中ひいては人生において

どうでもいいことに溢れているこんな世の中ひいては人生において、自分にとって何が「どうでもよくないこと」なのかを誠実に同定なり再定義なりしながら生きていくことが肝要なのだろうと思ってきた。

だが、どうにも、この「どうでもよくないこと」を発見するスキルよりも、その基準を下げるというか多様化させるようなメタな設定能力の方が、汎用性が高い上に習得が比較的容易のように思い至っている。前者が自己憐憫に帰結しやすい一方で、後者は自己陶酔に収斂しやすいのではないか。さらに適当なことを言えば、自己憐憫ではなく自己陶酔を措定して意味や価値を定義していくような根源的/原義的な楽観性あるいは肯定性。大袈裟な言葉を用いれば、これもまた存在論的了解なのだろう。それも、いい意味であまりにも卑近でとりとめもないような。

このメタ-メタな分岐こそが人生全体への態度そのものにおいて決定的に致命的らしいと得心してからというものの、かなり沢山のものが「どうでもよくないこと」に思えるかもしれないという期待感を抱くに至っている。食事も天気もあの人もこの人も、辟易し切れないほど面倒でくだらない。だが「こんなどうでもよさそうなことこそが、かけがえのない人生そのものなのだ」と酔狂する方が、あらゆる物事を断罪するよりも余程に(当然に原義的に)踊り切りやすいだろう。そんなもんだ、ぐらいに構えておく期間があっても、誰にも怒られはしない。

 

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