野村将揮 | 政策と経営と哲学のあいだ

京都/ハーバードを妻子&愛犬と散歩しながら考えたことの断章

2018-0910

 

「あり得た未来」と「あり得ようがなかった未来」、そして「今なおあり得る未来」の三つに分類して考えると、後悔が適切かどうかが見えてくる。

 

やはり、どうしようもないことが人生にはある。肝要なのは、そのどうしようもなさに自己本位的であっても妥当性を付与して、納得できるかどうかなのだろう。妥当な後悔はよい仕方で発酵していく。そうでない後悔は、大袈裟に言えば、精神を歪める起点たり続け得る。誰もが願った未来を獲得できるわけではない中で、その必要性と可能性が無かったのだと認めることができたかどうか。これは、思考訓練の範疇を超えた先ではもはや自助努力の世界ではなく、救いの無い話ではある。

 

主題を問わず、人生で経験してこなかった類の気分に包まれており、第一に取り扱いに困るが、それも新鮮ではある。逆に言えば、そういった次元に生きることが人間的なのであって、感情や感覚の言語化・記号化・規範化を通じた解体と再構築は、そういった生き方へのアンチテーゼというか、単純に言えば逃避だったのかもしれない。が、何を欲して何を棄ててきたかについて考えるのも億劫で、とは言え、やはり人生は奥深いなどと筋の悪い妥当性の付与は矜持の全てを以て避けたい。

 

ここまで考えて、なんでこんな面倒い人間になってしまったのか、誰かに尋ねたくて仕方がなくなっている。【了】

 

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