政策と経営と哲学のあいだ

東京/京都/ハーバードを行き来する日々で考えたこと by 野村将揮

近況報告に代えて

色々とひと段落したので、近況報告も兼ねてここ数年の取組を書き置いておきたいと思います。

1. 京都哲学研究所創設と国際会議開催
一般社団法人京都哲学研究所(代表理事:NTT澤田会長・経団連副会長、京大出口文学部長、理事:日立東原会長・経団連副会長、博報堂戸田前会長、読売G山口社長等、創設功労者:Wall Street Journal 親会社オーナーThomson Family)において、2023年7月の創設以来、Executive Advisor 兼 Chief Strategistという身に余る大役を仰せつかっております。ひとえに両代表理事及び理事各位をはじめとする皆様方の御厚情・御高配のお陰様です。
われわれ京都哲学研究所は、2025年9月22日から24日にかけて、京都議定書採択の地である国立京都国際会館において、初の国際会議である第1回京都会議を開催しました。

「『価値多層社会』の実現に向けて」をテーマに開催した当該会議には、特設サイトにも掲載のとおり、東大総長、京大総長、東京藝大学長、東京科学大理事長などの国内研究者、僕の指導教官でもあるハーバード大学デザイン大学院の前学長をはじめとする世界各国の研究者、国内上場企業の会長/社長/創業者(順不同で、東芝、三菱重工、JT、NEC、JAL、日本生命、メガバンク3社など多数)等、のべ600人にご参加賜りました。
僕自身は、研究所創設4ヶ月前の2023年3月に当該会議の開催を含む初期構想を現代表理事の御二方(NTT澤田会長・京大出口文学部長)にお持ちして以来、研究所の長期戦略立案に加えて、この京都会議全体の構成から各セッションのトピックや登壇者などプログラムの全体設計を担わせて頂くとともに、会議各日のラップアップを含めて計4回登壇させて頂く光栄に与りました。個人的には反省も数多くありますが、御参加者の皆様には総じて御好評を賜り、2027年に開催予定の第2回以降に繋がる形で終えられたように感じております。

(壇上が野村。読売G山口社長、JT岩井会長等とのセッション開始時)

(左から野村, NTT澤田会長, 京大出口文学部長, ボン大マルクス・ガブリエル教授)

また、当該会議を経て京都哲学研究所は、スイス政府とジュネーブ政府が創設した国際シンクタンクであるGESDAとKIPの連携協定も締結しました。GESDAの現会長はダボス会議の現会長でもありますところ、世界への更なる発信に取り組んでまいります。

2. 京都市政の2050年までの基本方針「京都基本構想」の起草
京都市が25年に一度策定する市政基本方針である「京都基本構想」(仮称)の審議会特別委員として起草(つまり審議会委員各位の御意見を踏まえた全文の執筆)を担う光栄に与りました。当該審議会の委員には、堀場製作所堀場会長、京都府医師会松井会長、京都大学公共政策大学院曽我院長など名実ともに京都を代表されている大先達が数多くいらっしゃり、委員の皆様との議論を通して個人的にも本当に貴重な勉強をさせて頂きました。本基本構想の草案は審議会の正式な答申として9月中旬に京都市の松井孝治市長に提出しており、市議会での御議論を経て正式に策定されます。

(NHK: 左から松井京都市長, 審議会宗田会長, 野村)

また、上記1. の京都哲学研究所主催の国際会議「第1回京都会議」直後には、京都市主催にて、「京都基本構想」(仮称)と京都哲学研究所の理念を接続する形で対話を織り成すオープンカンファレンスも催され、僕も、京都市松井市長、NTT澤田会長、京大出口文学部長とともに登壇させて頂きました。

本基本構想は、上記1. で触れたGESDA(スイス政府・ジュネーブ政府が共同創設した政府組織)の幹部からも極めて好評で、スイスでの国際会議での世界に向けた発信も予定されております。今後も京都と日本の真髄を世界に提示してまいります。

3. 任天堂創業家とのYamauchi Japan Initiativeの創設
任天堂創業家である山内家のYamauchi No.10 Family OfficeのExecutive Advisorとして、世界における日本の存在感と影響力を高めるイニシアチブたるYamauchi Japan Initiativeを考案・設計しました。ハーバード大学ケネディ行政大学院に在籍する国連職員、世銀職員、王族、各国国家元首アドバイザー等を毎年500名程度の応募者の中から20名程度選抜して日本に招聘し、世界遺産や人間国宝等を訪問しつつ、相互理解深化とコミュニティ形成を推進しています。国際機関や各国政府のトップリーダーたちにも京都/日本の思想や文化が十二分に通用することの確信を年々強めています。10年、20年と継続することで新時代のソフトパワー外交の礎としていけたらと考えています。

4. AIベンチャーアイリス株式会社CCO(8年目)
AI搭載医療機器を開発・製造・販売するアイリス株式会社にて、2018年11月の入社時から執行役員を、2019年7月からはChief Creative Officerを務めています(ここでの "Creative" は広告等というよりOut of The Box的アプローチ全般を意味し、一般的な語彙で言えばInnovationが近いかと思われます。)。
オフィスさえ無かった時代に6人目として入社してから早8年目を迎えつつあり、同社はこの間、インフルエンザ診断支援AIを搭載した医療機器の開発・製造・販売の推進(国内1,000以上の医療機関に導入済)、新型コロナウイルスに関する新機能の開発、スタートアップW杯世界大会優勝経産省/NEDOの予算事業への採択厚労省/AMEDの予算事業への採択などを地道に進めてまいりました。
僕自身は、AI医療機器開発にあたっての厚労省/PMDAとの法的整理、国内発新技術を用いたAI医療機器として史上初の公的保険適用に向けた大臣経験者等との協働、2023年グッドデザイン賞 経済産業大臣賞を受賞した際の資料&スクリプト作成、資金調達、業務執行取締役及び非執行取締役のサーチと入社/着任までコミュニケーション、毎週の経営会議のアジェンダ設定とファシリテーション、ここには書けない斜め上すぎる案件の対応など、書き切れないほど様々な業務を担ってきました。前職の経産省という巨大な官僚組織での経験も相俟って、オフィスも無い数名のスタートアップから100名を超える組織へと変貌していく過程をCXOとして体感できたことは大きな財産になっています。組織や共同体が直面する課題には一定程度の一般性があり、したがって、解決方法にも一般性を見出せるように感じています。

5. HBSケーススタディ(The Pokémon Company)の共著
ハーバード大学経営大学院でビジネスリーダー向け講義で取り扱われる経営事例研究(ケーススタディ)を共著しました。ポケモンが名実ともにグローバルブランド/IPとなった25年間の歴史を振り返ったものです。同社社長をはじめとするほぼ全ての役員の方々と数え切れないほどの議論の機会を頂戴できたのは大ファンとしてこの上ない僥倖でした(僕は世界大会の実況もできると勝手に思っています。舞えるだけ舞え!)。長期的かつ本質的な価値創出を追求してき同社の歴史は本当に敬服に値するもので、多くの経営者の方にとっても参考になるかと思います。
The Pokémon Company: Evolving into an Everlasting Brand

6. 企業・自治体の戦略アドバイザー等
創業数年のスタートアップ企業から誰もが知る世界的企業、50年以上の歴史を有し数十店舗を展開する地域密着の飲食店に至るまでに対して、経営戦略(長期戦略、世界戦略、ブランディング戦略 etc)の策定、MVV(Mission, Vision, Value)策定、これらに紐付く組織設計、エクイティストーリー策定など幅広くご支援してきました。
また、国のWG登壇、大阪府知事直下の万博関連有識者委員、上記2. にもある京都市総合計画審議会の特別委員(2050年を見据えた25年間の市政基本方針「京都基本構想」起草)、高校までを過ごした人口16万人の富山県高岡市の政策アドバイザーなどを務めつつ、大臣経験者等のアドバイザーやディスカッションパートナーも担っています。

おまけ
母校であるハーバード大学ケネディ行政大学院の公式ウェブサイトで、上記した取組を含めた半生を紹介いただいています(掲載内容は2023年当時のものです。)。当時まだ生後半年だった息子と愛犬のごましおちゃんも写真で登場しています。きっとハーバードのウェブサイトに載った初の柴犬のはず...Big Love...
"From humble roots to Harvard Kennedy School"

おわりに
高校生の頃から「世界で勝負したい」「世界を動かしたい」ずっと思っていたのですが、30歳を迎える際に「30代はひたすら土台作りに費す」と決意し、まさにその通り愚直に30代前半を過ごしてきました。現在は35歳なのですが、40歳までは引き続きひたむきに修行と準備に励みたいと思っています。
その上で、過去5年程度で取り組んできた&今後の人生50年においても取り組んでいくことを単純化して言語化すれば「京都/日本から人類社会の未来に貢献する」ということに尽きます。
これをさらに書き下せば下記になります。

  • 京都/日本の思想・文化の可能性を最大限発揮することで新たな次元のソフトパワー外交を展開し、国際社会における日本の存在感と影響力を高めながら人類社会に貢献していく。より具体的には、非二元論/非要素還元主義的な概念的枠組をグローバルアジェンダ形成及びグローバルルールメイキングに応用していく。たとえば、"Sustainability" が人間を自然から切り離す客体化を強く前提し、"Diversity" が個人という枠組の絶対的独立性を前提してむしろ自己と他者を根底で分離してきた中で、人間と自然の不可分性、個人-社会や自己-他者の不可分性といった視座を前提とする概念的枠組への世界の転換を牽引し、より多層的で共栄に資する国際秩序や国際制度(会計基準や国際租税から国際機関のあり方に至るまで)に結実させていく。
  • 上記と相補的に、日本国政府から自治体、AIから伝統工芸や藝道、数十万人の従業員を有する巨大企業から創設後数年のベンチャー企業に至るまで、超グローバルと超ローカルの双方において、崇高ながらも複雑で、曖昧で、それゆえに尊い理念や理想を、言語/組織/事業/政策/制度などとして具体化し、人類社会の未来に遺すべき価値の保全に貢献する。

国際機関から町内会に至るまで規模や抽象度は一切問いませんので、本気で未来を変えたい方で面白い構想/アイデア/リソースがおありの方がいらっしゃっいましたら是非ご一報いただければと存じます。

課題と構造

目先で現前している課題を小手先で改善したところで、構造そのものを是正できない限りは同種の課題が別の表出の仕方で再生産されていく。当然の話として、対症療法の蓄積では体質改善には結実し得ない。否、そもそもの定義の問題として、体質が改善するのであればそれは対症療法とは呼ばない。

誰しも、解決できそうな課題が視界に入るとつい手を出したくなってしまうものではあるが、今日明日の課題と10年後ひいては100年後の課題は構造が根本的に異なる。したがって、これらを意識的に切り分けて考えた上で、意図的に再接続する必要がある。「この目先の課題解決や意思決定が、10年後や100年後の何にどう繋がっているのか/いないのか」「課題解決や意思決定が自己目的化されていないか」「そもそも目的化されるべきものは何なのか」などを、不断に問い続けるほかない。

上記は、事業一般はもちろん、最も根深い類の個人的問題にも通ずる。内面化されて久しく幾度も化膿を重ねてしまったコンプレックスは、当座の活動や人間関係のあり方を変えたところで、まず以て根治に至りようなど無い。あらゆる物事の見方を、さらに言えば、外界の受容体たる自分の価値規範を、根本から刷新していく必要があり、身を切る前提での相応の覚悟が求められる。もっとも、そのような必要性の自覚に至れている時点で極めて幸運なのであって、その場合はただ真摯に時間を費やし続けさえすれば快方に向かっていくものではある。逆に言えば、いまは目先への対応を是としてしまっていいのだ、といったような価値規範がメタに硬直化していると、もはや救いようが無くなってしまう。これは加齢等による保守化と片付けていい問題では決してない。人生への態度の問題であり、生き様の問題にほかならない。

日々色々な相談を受ける中で、「それに何の意味があるのですか」と尋ねたくなることが本当に多い。しかしながら、相手側に上記したような自己理解と覚悟が伴っていなければ、直接これを尋ねても不要に不快にしてしまうだけで終わるので、最近は出来るだけ口を噤むようにしている。本当は、ただ「楽しいから」「やりたいから」とだけ意気揚々と答えてくれれば十分なのだが、どうにも、このような高い純度の自己理解、より厳密には、自分の価値観の所在の同定にまで至れている場合は、存外に少ない。当然極まりない話として、あくまで価値観や理念や思想こそが生を可能とするのであり、人間なんぞ只これらのために死んでいくほか無いのだが、この実感或いは覚悟を抱くことからして難しい時代らしくはある。どうせ私も、貴方も、俺も、お前も、遠からず死ぬのだから、意味があると信じられるものを一応でも持てている方が生きやすいのは道理のはずなのだが、SNSから動画配信サービスに至るまで、この道理から目を背けさせてくれる社会装置が余りに多すぎる。

数え切れないほど言葉を飲み込んだ末に相手がこのような自己理解と覚悟に至ってくれたときには、自分の貢献の程度など気にもならないほどに、ただただ喜ばしく思われる。自分の人生はこれでいいのだ、と、少なくとも自分自身に対しては嘘無く胸を張れる状態、哲学の小難しい言葉で言えば、ひとつの存在論的了解がここにある。たしかに、目先の課題に再び心を奪われて、これもすぐに揺らぐかもしれない。一度は仮置きした人生の意味も、いつの日にかは途轍もなく的外れだったように思われるかもしれない。だからこそ、そんなときの備えとしても、普段から構造に立ち返る知的態度を身体化させておく必要がある。日常の課題ではなく、人生の構造から考えられるように。ひいては、人生の構造に潜む奥深さと愛せるように。まさに体質改善にほかならない。

界隈の内破とムーブメント創出

界隈を盛り上げる打ち手をどれだけ重ねても、大方の場合においては社会全体のムーブメントには結実し得ない。界隈が多少の拡大を見るにせよ、当該界隈に流れる自己完結的な高揚感を嫌悪する人々が徒党を組んで別の界隈(すなわちアンチ)を形成し、徐々にだが確実に、影に日向に攻撃を重ねてくる。厄介なことに、この両者の対立は界隈の「界隈感」を強化し、界隈の外部の中立層に対する遠心力として作用する。加えて、そもそもの話として、大半の人間が特定の界隈に属することを避けたがるという事実は存外に見過ごされやすい。当然ながら、社会は界隈の総体ではない。

対応方針は大別して2つだろう。1つは、そもそもこの種の人々の視界に入らないよう徹底すること。とは言え、これでは物事を動かしようが無いので、本当に社会全体でのムーブメントを創出したいならもう一方の打ち手を採ることになる。すなわち、自分たちの界隈を逆説的に内破すること。様々な人たちと結託して、それぞれの界隈で、同じメッセージを、多彩な言葉で拡散し続けること。界隈を界隈たらしめる境界そのものを融解させながら、社会全体がすでにそちらに向かっているといった空気感を作り出す。敵味方さえも見定めようがない仕方で同時多発的に多面展開することで、いわば既成事実化していく。近年ではAKB48グループがこの成功例と言える。なぜ流行っているのかの理由が界隈の外からはまるで分からないのだが、どうやら社会現象になっているらしいことは分かり、とは言え「イタい」と断罪するにはすでに流行になりすぎている、というアレである(なお、AKB48はグループ内の頭数を48人と驚異的に増やした上で界隈内を小界隈すなわち「●●推し」に細かく刻んで競争させることて界隈全体の一体感を強化しつつ、このモデルをNMB48/SDN48/HKT48と地域に根差す形で横展開しながらこれらをテレビで全て可視化するという下品にも鮮やかなマネーゲームのもとで流行した。)。

余談の極みながら、いまのゾスにはこういった戦略性がまるで足りていない。戦略立案に本気で取り組む主体が不在ということは、程度差があるにせよ、その実はやはり大半が愉快犯なのだろう(まさにアテンションエコノミーという世相の反映にほかならない。)。しかしながら、このような世相においてさえも、界隈におけるコンテンツの蓄積がムーブメントや社会変革に直結するというわけではない。両者は元来的に性質も次元もまるで異なる。この当然の事実は今夏の都議選と参院選にまつわる情勢を冷静に分析すればあまりに容易に現前してくる。傍目にも空虚な界隈強化が散見され、もはや悲哀をも感じてくる。繰り返せば、社会は界隈の総体ではないし、コンテンツの蓄積はムーブメントや社会変革には直結しない。界隈を界隈として強化するコンテンツの蓄積では、世の中は変わらない。

界隈は、原義的に、愉悦的・自己満足的な空気感に満ちている。逆に言えば、この種の空気感を共有している共同体こそが傍目に界隈として映り、そして、そのようなものとして外部化されることで実際的な成立を見る(傍目に「イタい」と映るのもこの構造ゆえにほかならない。)。だからこそ、まずは自分の共同体のこのような空気感に対して、努めて客観的ひいては悲観的に自己評価を下し続けなければならない。短期的な享楽性が自己目的化されると結局は自分たちの未来を失うこととなる。言い換えれば、常に現在地を過程や手段でしかないと捉えるだけの強靭な目的意識が問われる。否、この次元の目的性を死ぬまで問われ続けるのが人生というものなのだろう。この種の目的性の欠落から目を背けさせてくれる社会装置に溢れた現代は、もはや構造的に不幸を量産していると言わざるを得ない。

個別の事業や取組においても、言うまでもなく、この目的性の純度こそが目的合理性の土壌となる。したがって、この種の客観性や悲観性を育む絶望的な経験と、これらを常に内在させ続けられるだけの強靭な精神力とが、長期的に(真に)事を成し得るかどうかを左右する。絶望に由来する悲観と客観の中で社会変革を志してムーブメントを生み出そうと挑戦し続けられる生涯なら、それは紛れもなく、幸運で幸福な生の在り方のひとつと言えるのだろう。そして、このような幸運や幸福を自己の内に見出せる程度の自由を自分に与えてやれるかどうかこそが、存在論的了解の最たる前提となる ーこの前提を満たせている時点で当初から幸福であることは疑いないのだが。

心ある幸せな者たちが良心や好奇心から界隈を形成し、界隈に溺れ、そして界隈で窒息していく有り様は、見ていてあまりに切なく、哀しく、しかしながら、そもそも人生も人間社会もさほどに甘くはないという当然の事実の前傾化でもあるように感じている。ともかくに行動が是とされる浅慮極まりないこの時代においてこそ、腰を据えて思想と戦略を練磨させていくような人生と社会への態度が致命的に重要なのではないか。

雑感(20250527)

1.
同世代の友人たちが選挙/起業/研究/育児など銘々に奮闘している。主題や方法はどうあれ、社会ひいては歴史の中で何かを生み出し刻み遺そうとする生き様は本当に尊いものだと思う。自分は自分の価値観と戦略で生きていくに尽きるのだが、素直に、頑張ってほしいと心から思う。我ながら歳を取った。

2.
その上で書き置いておくと、目先の機会に浅慮にも飛び付く事例、つまりは、流行や潮流に小手先で迎合している場合も相当数見受けられる。
実際、10年や20年といった長期スパンで地力を付けながら愚直に準備を重ねていくというのは、内実の問題以上に態度の問題として、ただただ至難を極める。時流は即自的に表面的な「成果」を期待し、これを消費し、果ては使い棄ててくれる。そんな中、ご都合主義的あるいは愉快犯的に目先の機会や利益に飛びついてしてしまう場合もあれば、金銭面からキャリアの行き詰まりに至るまでの様々な要因で追いやられるがごとく非合理的な意思決定に ーそれゆえにある意味での飛躍を伴う挑戦にー 乗り出せる場合もある。無論、ともに人生の機微であり奥深さでもあるのだろうから、この味わい方は各個人の趣向すなわち価値観に依る。
とは言え、挑戦や行動それ自体を尊いものとみなすのは、ひとえに過大評価も甚だしい。究極的には死ぬまでに何を生み出して遺せるかという問題でしかないのだから、本来的にはこの問題と対峙し続ける中でむしろ長期的そして構造的な戦略が求められる。翻って、「その先が本当にあるのか」ひいては「生きて死ぬに値したと思える何かに到達できるのか」という点は、どこまでもシビアに自問し続けなければならない。
しかしながら、この自問にあたっての性善説的態度やある種の楽観主義も極めて重要ではあるらしい。これはもはや思想というより性分の問題と捉える方がいいのだろう。ある人にとっては大失敗や挫折でも、また別のある人にとっては人生を豊かにする学びや未来の(真の)飛躍の代え難い糧とたり得る。したがって、まずは自分の性分を ー当然に、自分の思想と併せてー 深く理解し続けていかねばならない。自分はいつからかこの文脈ではかなり保守的になった。(少なくともいまは)これでいいと納得できてしまっているのでこの点に関する自己変容を志向していないのだが、ここにもトートロジックな自己規定があることは間違いないので、その取扱いついては一度クリアな頭でじっくり考えたい。

3.
東大の文化祭(五月祭)で大学生向けに少し話をした。その後の懇親会も含めて、こちらが小っ恥ずかしくなるような純朴な質問や反応を数多くもらい、普段とは別の視点から自分を捉え直すいい機会となった。大変にありがたい。いまも、人間と社会の健全さの何たるかについて考えている。純朴な市民が純朴なまま生きて死んでいくことが叶い、その中でまた純朴な次世代が涵養されていく、といったいわば自然なあり方を歪めているものを、逃げずに直視する必要がある。

4.
目的合理性に乏しいことの問題性について。目的の曖昧さや純度・熟度の低さと、合理性を高める経験や知識の不足とを、努めて切り分けて考える必要がある。前者は主題の話であり、後者は方法の話にほかならない。いずれが脆弱であっても目的合理性に悖るが、それ以上に、両者の混同は手段の目的化を招き、無自覚にも根本で目的合理性それ自体が倒錯する。これは本当の本当に性質が悪い。
どこからを目的とし、どこからを手段とするかは、メタな次元でその人の思想を反映してもいる。言い換えれば、どこからなら目的として認め得るのか、という実存的な問題に帰結する。それは死という最たる主題の取扱いそのものと軌を一にしているのだが、現代社会は死を直視することを猶予する社会装置に ーつまりは、この逃避を暗黙に強いた上で合理化する力学にー 溢れ過ぎている。この猶予・逃避の中で漫然と過ごしているうちに死んでいくこととなる。文字通り、社会的病理だろう。
いずれにしても、ここで言う目的なるものが純度と熟度に悖れば、いくら手段が合理的であろうとも、総体としてはまるで笑えない茶番に終わる。笑えない茶番を悲劇と捉えるか喜劇と捉えるかもまた思想というか死生観次第なので、この問題化自体に齟齬というか歪みを見出すこともできるのだが、自分の中での合理化の立脚点を日常的に確認するようにしておかなければならない。流石にこの程度は教条的であってもいいだろう。

雑感(20250329)

1.
昨今のAIブームは大衆の関心を主題から方法へとすり替える類の力学を有している。理念の欠片も無い小手先の事柄に関する言説ばかりが溢れており、この潮流も当面は続くだろうが、二極化を経てその空虚さが暴かれることになるだろう。テクノロジーの活用による効率化や合理化もまた思想であるなどといった主張は、思想なるものへの理解があまりに浅薄であることの自白にほかならず、痛々しさを超えて憐憫さえ抱く。既にメタな次元でテクノロジーに人間性を収奪されている。

2. 
現在の自分に扱える程度の課題や主題を多数抱えて日常を埋め尽くしたところで、新たな発見や変化には至り得ない。日々が充実していると錯覚しがちだが、その実は工程管理の快感に溺れているだけで、何も血肉になっていない。自分の経験や思考の枠を超えたもの一つに注力する中で頭を抱えながら停滞する方が、長期的にはよほど実りがある。この錯覚には努めて自覚的でありたい。

3.
経済的に安定している社会においては弱者へのまなざしが向けられやすくなる。これ自体は大いに歓迎すべきなのだが、SNSの普及で個別具体のナラティブが大変お手軽に消費されやすくなった今日日においては、この「弱者」の射程が拡張され続けていく。従来は(当然に)自助努力の問題とされていた事柄が社会的「弱者」として問題化され、当事者よりも界隈の自意識を満たす仕方で自己主張を強めていく。その帰結として、大半の人間から見ても度を超えた類の怠惰や無責任に対してさえも配慮や理解を強制するような社会潮流が生じるに至った。留意すべきは、この「弱者」による自己主張であれば個別具体の主語や主体が存在するが、総体としてのこの社会潮流には特定の主体が不在である点だろう。特定の主体が存在するならばこれと対峙すればいいが、空気や雰囲気の問題でしかない場合はそれも叶いようが無い。結果として際限なく弱者が量産され続けていき、誰もが度を超えた配慮や理解を何者かによって強いられている。たしかに、日本社会で根強かった自己責任論や努力論が数多の問題を内包していることは疑い無く、隠匿されてきた構造的暴力の打破にあたっては「弱者」の射程拡大も当然に必要な経過ではある。しかしながら、すでにこのような「弱者」の量産に「非弱者」が辟易し接触を忌避するメタな構造が完成しており、この二段構造においてこそ修復し難い深い断絶が生じつつあることは、極めて深刻な事態として受け止められるべきだろう。この構造の打破を志向する道理が希薄化していくという、更にメタな構造がすでに成立しつつあるのだから。

価値観と思想と

自分に価値観なるものがあるという当然の事実に無自覚な人間があまりに多いというか、100人いれば99人が、1000人いれば999人が、この意味合いを受容することはおろか深く考え抜ることにさえ至っていないらしい。いまのこの1秒も、口にする言葉ひとつも、手足の動き数センチも、当然の話として全て自分の価値観の体現にほかならない。この事実の重みを理解できていないと、どれだけ策を弄して外面を整えようとも、畢竟あらゆる言行すなわち人生のすべてが表層的ないし空虚なもので過ぎ去り終わっていく。内村鑑三の言ではないが、金でもなく事業でもなく思想を、ひいては生き様を遺すためには、そもそも自分の価値観なるものの枠組みや内実を同定し腑落ちさせる必要があるのだが、ほぼ全ての人類がまず以てその在否さえも問い切れていない。とは言え、これを問い切るだけでゆうに50年を要するといったこともまるで珍しくないのだろうから、これを問い切れたならもはやそれだけで生きて死んでいくことを最も深い次元で肯定し得るのかもしれない。研究も事業も家庭も趣味もすべてこの主題から自己を遠ざける遠心力を強化するばかりながら、問い続けなければこの作用に気付くことさえも叶わないので、やはり構造的な話ではある。

死んでも残る理論や概念や思想は、形式的には逸話となることが大半であり、逸話を介してこれらが広まり切ったころにはそれは神話化されている。そして、神話こそが新たな価値観の土壌になる。なんとなく、本当になんとなくだが、なんと尊いことではないか。

主題の獲得と方法の放棄

人は往々にして主題よりも方法に執心してしまう。本来的には主題が方法に先立つはずなのだが、語るべき/語られるべき主題の発見や受容には知的な蓄積に加えてかなりの精神的な労力が必要となるため、どうしても方法に誘引されてしまう。方法は、少なくとも相対的には、いわば主題たり得る主題よりも遥かに獲得しやすい。

どうすればいいのか。方法を放棄するしかない。方法に執心してしまう心性のみを内破できればそれに越したことはないのだが、心理的な作用もあって一般にはなかなかに難しい。したがって方法そのものを総体として放棄するということが合理的なはずだ。

無論、ここで言う方法とは、生活習慣から親密圏、文体から服装に至るまで多岐に及ぶ。ゆえにこれらの放棄は、畢竟は絶対無のごとき孤独への投企となる。そこで出会う何かこそが全存在を賭すべき主題にほかならない。あくまで、もし出会えれば、の話ではあるにしても。

原離隔、あるいは諦念について

哲学者マルティン・ブーバーは、日本で訳出されているところの "原離隔" なる概念を用いて他者との絶対的断絶を前提した他者論(より正確を期すれば自他論/自-他論/我-汝論)を説いた。たしかに、他者らしき存在は物理的・精神的な次元に留まることなくあらゆる面において此方側の(便宜上措定され得る)自分らしき存在と隔絶しているのであって、この受容から人間関係や人生を考えるという視座は現代においてもなお有用だろう。自分は他人に完全には理解などしてもらえるはずもないし、当然にその逆も然りなのであって、だからこそ両者のあいだに儚くも存在する(かもしれない)あわいにおいて見出せるものが何なのか(それこそが別次元の自己/自他/我-汝なのかもしれない)という存在論的問いにほかならない。

ところで、この "原離隔" なる概念に出会ったのも10年以上前になるが、やはり何が当時の自分の琴線に触れたのかということを再考してみるのも大変に有意義らしい。一般にある概念や理論に惹かれるというのは、その時点で内面化された自分の価値規範や思考体系が反映されているのであり、いわば極めて個人的な社会的文脈、言い換えればトラウマやコンプレックスを、投影していた(に過ぎない)のかもしれない。そしてこういった引力や内省の蓄積が人類の思想を形成してきたのだと思うと、なんと人類とはいい加減なものなのだろうかと救われる心持ちになりさえする。

意味への問いと自己否定

こんなことに何の意味があるのか、と問うことを続けていくと、否応なしに自分という存在の意義さえも否定せざるを得なくなってくる。この問いの行き着く先、つまりは、得心と諦念とを以て意味の追求をようやく終えられる場所にこそ、思想信条がある。自己否定の蓄積の中においてのみ存在論的了解の支柱が樹立されていくのであり、この支柱の強靭さが、世に言う有意義な人生を支えていく。その意義は意味への問いへの答たり得ないが、少なくとも問いそのものを霧消させてはくれる。人間はそのように脆く儚く生きていく中で、その脆さや儚さを愛することを学びながら死んでいくものなのか。

言葉の頽廃による感性の消失、あるいは人間性の敗北について

言葉を尽くして感情や思想や記憶を語り、伝え、遺していく。この種の人間的営為に纏わる姿勢それ自体が前時代的なものになりつつある。衆目を集めるには過剰に単純化された形容や揚げ足取り染みた極論の方が効率(まさに"コスパ/タイパ")がいい。言葉が情報として下賤に浪費されるようになって久しく、この浪費に値しない言葉は市場価値が低いという理由で存在意義を認められ難くなってしまっている。何十年もの経験と何十時間もの手間の集大成たる一皿もファストフードも同等に「おいしい」という一言と不自然極まりない加工に塗れた写真とで貶められてしまうこんなくだらない世界で、忘れられない、或いは忘れたくない一言も、表情も、風景も、何もかもが軽薄に一般化されて日々無惨にも失われていく。自他の心に刻むための言葉も刻まれるべきものを見定める感性も、人間の人間たる所以として両者を見定め保全していくべきだという思想も努力も、諸共に時勢に掻き消されていく。分断などという便利な言葉では到底片付けられない根源的な断絶が感知されることさえなく至る所で拡がり深まっている。「死ぬまでファストフード貪りながらSNSに粘着してドーパミンに溺れてろ」と断罪することもできるのだろうが、それを何としてでも拒否するところにこそ人間全般への儚くも涙ぐましい信頼がある。この信頼を放棄しないことこそが人間全体の尊厳に根本から関わる問題にほかならず、ゆえにその在処としての言論空間と言説とが致命的に重要だったはずなのだが、いまや到底機能しているとは言えない。言葉が頽廃し、感性が消失し、人間性が敗北した果てに何が待ち受けているのか。ここに悍ましい不安を抱くことさえも既に時代錯誤なのか。

「白い犬とブランコ」の記憶

学部生時分に掲題の短編に出会った。当時はドゥルーズのメルヴィル解釈に傾倒していたはずなのだが、いかなる心境ゆえか聴講していた中国思想の講義で紹介された作品群のひとつだった。

講義を担当されていた教授は魯迅「故郷」などの新訳で高名だった。中学の教科書に掲載されていた「故郷」は記憶に刻まれていたが、教授の新訳は、それと比しても殊勝だった。中間レポートで当該作品中の一文の訳出に係る解釈を書き綴ったところ、「同感です。」といった旨の講評が添えられて返却された。

掲題の短編は期末レポートで採り上げた(訳は別の研究者によるもの。)。この作品「白い犬とブランコ」は、ノーベル文学賞も受賞した莫言 (Mo Yan) が郷里の記憶に基づいて紡いだ作品であり、郷里を離れて都市部で出世を重ねた主人公が久方ぶりに帰郷した折の物語である点で「故郷」とも通底している。まさに題名が示唆するように、慎ましくも繊細な色彩を以て生命の脈動と無機的な残酷さとを重層的かつ切実に醸出することに成功している、人類史に残されるべき稀有な名作であり、また、名訳でもあったように思われた。すでに卒業後は経産官僚になることが決まっていた当時の自分には、その技巧と主題もあって、殊に趣深く感じられた。

返却されたレポートには「深い共感に支えられた解釈である。」といった旨のことが書かれていた。その講評の冒頭には「野村将揮 同学」と付されていた。初めて目にした言葉だった。甘美と形容するにはあまりに厳かなその一語は、それでいて、「知の下では誰しもが等しくともにある」という矜持と敬意を纏っていた。上記した同感も、共感の感得も、両者があってこそのものだった。

あれから10年が経ち、曲がりなりにも学術論文を書くに至っている。こんな自分は、中学時代の教科書から、あの教授が数え切れないほど用いてきたであろう何気ない一語に至るまでの、あまりに瑣末で尊い記憶の蓄積に支えられている。掲題の作品を含む短編集は、今なお書斎の書棚にある。

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大江健三郎が莫言の家を訪ねた際に、文学における風景と記憶について述べた貴重な動画:

https://youtu.be/joK-E0IHuMI?t=217

『白い犬とブランコ 莫言自選短編集』(NHK出版)

https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000054362003.html

 

義理と情理と

誰しもが数多の不義理を重ねてようやくに義理や情理の何たるかを教わるのではないかと思い至っている。このような心境に達すること自体が円熟のひとつのあり方なのだろう。身につまされることも余りに多いが、歳を取ったのか、他人の不義理に然程に強い憤りを抱くことは滅法減ってきたらしい。だとすれば、謝罪に行脚するよりは淡々と目配せしてやることこそが報恩なのだろう。この総体が(嫌いな規定の仕方だが、いわゆる)日本的なのか儒教的なのか何なのかについても一応は考えていきたいが、まずは赤面しながら就寝する。歪んだ憎悪や他責性を化膿させない支えとしての理に感謝しつつ。

合縁奇縁

自己理解の深化や自己像の刷新は一般に(現在のみならず過去における)他者を介して為されていくが、これとは別次元の話として、畢竟、万事そのあいだにおいて不断に発見・解体・再定義を経た自己らしき何かを受容し愛でてくれる者との出逢いに恵まれるかどうかに尽きるのではないか。メタに言えばこの点に関する諦念にも似た肯定感に拠って立つことこそがこの類の僥倖をもたらす側面もあるはずで、この足場を獲得するまでが身を切るがごとき苦難や苦痛の連続なのだが、これらを超えられるか否かは結果論でしか語られない中で自助努力の問題に帰するのもあまりに暴力的ではある。ささやかな抗暴としてはひとり静かに感謝を捧げるにほかはなく、その先が神なのか仏なのか何なのかを言語による規定を超えて是認できれば、生死を支える精神的支柱に成り得るだろう。宗教的啓示に帰因しない人生や自己存在の肯定のあり方については先達に話を聞いて回る必要がありそうではある。

間合いと愛着

共同体や人間関係一般への間合いや愛着の取り方が個々人によって果てしなく多様であるという前提に立って具体的他者の理解に努めるといいのだろう。表現形の問題を超えて、人柄ひいては人生観の問題として。そもそもこの類のものが多様であるということ自体への無理解が蔓延している。もっとも、この無理解の程度は関係の構築・強化を大きく左右することが常ではあるので、ごく自然に淘汰されているようにも思われはするが、少なくとも共同体規範の規定や大きな意思決定においては相当に重要な基準たり得るだろう。

こんなどうでもいい世の中ひいては人生において

どうでもいいことに溢れているこんな世の中ひいては人生において、自分にとって何が「どうでもよくないこと」なのかを誠実に同定なり再定義なりしながら生きていくことが肝要なのだろうと思ってきた。

だが、どうにも、この「どうでもよくないこと」を発見するスキルよりも、その基準を下げるというか多様化させるようなメタな設定能力の方が、汎用性が高い上に習得が比較的容易のように思い至っている。前者が自己憐憫に帰結しやすい一方で、後者は自己陶酔に収斂しやすいのではないか。さらに適当なことを言えば、自己憐憫ではなく自己陶酔を措定して意味や価値を定義していくような根源的/原義的な楽観性あるいは肯定性。大袈裟な言葉を用いれば、これもまた存在論的了解なのだろう。それも、いい意味であまりにも卑近でとりとめもないような。

このメタ-メタな分岐こそが人生全体への態度そのものにおいて決定的に致命的らしいと得心してからというものの、かなり沢山のものが「どうでもよくないこと」に思えるかもしれないという期待感を抱くに至っている。食事も天気もあの人もこの人も、辟易し切れないほど面倒でくだらない。だが「こんなどうでもよさそうなことこそが、かけがえのない人生そのものなのだ」と酔狂する方が、あらゆる物事を断罪するよりも余程に(当然に原義的に)踊り切りやすいだろう。そんなもんだ、ぐらいに構えておく期間があっても、誰にも怒られはしない。