野村将揮 | Philosophical Insights − 哲学と政策と経営のあいだ −

哲学研究者で元経産官僚で医療AIベンチャーCXOがハーバードで考えた哲学的洞察の走り書き

生きるに値しないこんな世の中で

宮崎駿が2013年の引退会見で「この世は生きるに値する、ということを伝えたい」といったことを述べ、この言葉の美しさが各種メディアで大きく取り上げられるに至った。だが、そのような理解はあまりに浅薄だったと思われてならない。そもそも本来的には、「この世が生きるに値するかどうか」を考えなければならない時点で、あまりに悲劇的でさえあるはずだ。直裁に言えば宮崎駿の冒頭の言葉は絶望から発されたものにほかならない。これを看過したのは、一個の人間への敬意と誠意を欠いた冒涜ではないか。無論、消費というものは原義的にそういう愚行だと言い捨ててしまえばそれまでではあるのだが。

最近改めて気が付いたことに、大半の人間はこの種の悲劇や絶望とは無縁の人生を歩んできたらしいということがある。存在の根底を揺るがす危機的状況に瀕したこともなければ、自身を無理矢理にでも儚く肯定すべき絶対的悲劇や虚無に襲われたこともない。何も考えていない以前に、本当の意味では、何も考える必要が無かったのだ。どれだけ大袈裟に語ろうが、所詮は当座数年の快不快の話でしかない事柄を捏ねくり回すだけで生きてこられた。それゆえに、あらゆる思索が、極めて幸福で陳腐な一般論の範疇をまるで超えない。皮肉ではなく、これは本当に幸福なことだと思う。こういった類の人間に囲まれる日々の中で、連中が大変に気が良く心優しいからこそ、人間社会の断絶を再生産し続ける構造を突き付けられている心持ちにもなる。そして、かく言う自分も、ここに悲哀や憐憫が湧き上がってくるような人間全般への健全な敬意と誠意を失ってしまったらしい。だったらどうした、という話なのだが、この話が途轍も無く重要であることが分かる程度には、まだ一応は人間を生きているつもりではある。そして、自己存在を含むあらゆる物事を一旦は全否定しなければいけないような生き方は、或いはこれを引き摺ってきた生き様のほかに、才気や狂気を発酵させてくれるものなど無いはずなのだが。

主題の獲得と方法の放棄

人は往々にして主題よりも方法に執心してしまう。本来的には主題が方法に先立つはずなのだが、語るべき/語られるべき主題の発見や受容には知的な蓄積に加えて精神的な労力が必要となるため、(実は相対的には獲得しやすい)方法に誘引されてしまう。

どうすればいいのか。方法を放棄するしかない。方法に執心してしまう心性のみを内破できればそれに越したことはないのだが、心理的な作用もあって一般にはなかなかに難しい。したがって方法そのものを総体として放棄するということが合理的なはずだ。

無論、ここで言う方法とは生活習慣から親密圏、文体から服装に至るまで多岐に及ぶ。ゆえにこれらの放棄は、畢竟は絶対無のごとき孤独への投企となる。そこで出会う何かこそが全存在を賭すべき主題にほかならない。あくまで、もし出会えれば、の話ではあるとしても。

原離隔、あるいは諦念について

哲学者マルティン・ブーバーは、日本で訳出されているところの "原離隔" なる概念を用いて他者との絶対的断絶を前提した他者論(より正確を期すれば自他論/自-他論/我-汝論)を説いた。たしかに、他者らしき存在は物理的・精神的な次元に留まることなくあらゆる面において此方側の(便宜上措定され得る)自分らしき存在と隔絶しているのであって、この受容から人間関係や人生を考えるという視座は現代においてもなお有用だろう。自分は他人に完全には理解などしてもらえるはずもないし、当然にその逆も然りなのであって、だからこそ両者のあいだに儚くも存在する(かもしれない)あわいにおいて見出せるものが何なのか(それこそが別次元の自己/自他/我-汝なのかもしれない)という存在論的問いにほかならない。

ところで、この "原離隔" なる概念に出会ったのも10年以上前になるが、やはり何が当時の自分の琴線に触れたのかということを再考してみるのも大変に有意義らしい。一般にある概念や理論に惹かれるというのは、その時点で内面化された自分の価値規範や思考体系が反映されているのであり、いわば極めて個人的な社会的文脈、言い換えればトラウマやコンプレックスを、投影していた(に過ぎない)のかもしれない。そしてこういった引力や内省の蓄積が人類の思想を形成してきたのだと思うと、なんと人類とはいい加減なものなのだろうかと救われる心持ちになりさえする。

 

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目的合理性を超えて

「目的合理的でありたいし、そうあるべきだ」と思いながら長らく生きてきた。だが、目的と呼び得るほどに小綺麗で耳障りのいいもの以上に、執着や執心の方がどうにも重要らしいと得心しつつある。

他人にとっては本当にどうでもいいことが自分にとっては途轍もなく大事だということは少なくない。およそ(いわゆる)客観的に見て合理的とは到底思われない事物を目的として規定する際に執着や執心が現前してくる。執着や執心は感情の問題であり、ひいては化膿していった末に感性や価値観それら自体の土台になっていく。

自分にとっての論理が他人にとっての論理とは体系が異なることも、その逆も、当然に生じてくる。多様性などという類の綺麗事も本来的にはこの次元から誠実な議論を始めることが妥当なはずなのだが。仮に合理性という規範や体系が食い違い続けるにしても、目的は、少なくとも合理性に比べれば遥かに容易かつ深く、共有され得るのだから。

 

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意味との闘い

やはり意味があると心の底から信じられる何かを持てているかどうかが大事なのだろう。もう10年以上前になるが、カーネギーホールで独演会を催すほどのアーティストに、ステージで一体何を考えているのかを尋ねた際の言葉、「自分がこの世で最も美しく尊いものだと思って演奏している。」は今なお深く印象に残っている。この次元の強度や純度で意味への信頼を獲得出来たなら恐れるものは殆ど何もないと言っていいだろう。だが、当然にそこに至るまでがひとえに名状し難い。もはやこれ自体が広い意味での運であり結果論ひいては決定論的であるようにさえ思われる。

先週、英国の哲学者に日本語の「意味」と「意義」の違いを問われた(文脈上、ここでの「意味」は「言葉の指し示す先」以外のものを措定している)。この際、「意味」は私的な、「意義」は公的なニュアンスを有するはずだ、と答えたのだが、「意味」なる一語に言葉の機能としての外的な絶対性と信条としての内的な脆弱性とがともに含まれているらしいことを思うにつけても面白い。意味なるものはどこまでも私的に絶対的であり、ゆえに脆いのだろう。

 

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自己欺瞞の限界

自己欺瞞は往々にして他人と相対することで我が身に突き付けられる。何事においても小手先や綺麗事でそれらしいことを演出することはできる。「これが本当にやりたかったことなんだ」とでも言ってしまえば、(こんなご時勢においては)真っ当な猜疑からも逃げられるし、「費用対効果が高い」「スピード感が大事」とでも言えば歓迎される。
だが、真髄を捉えている人間を前にすると結局は自分の浅薄さや愚かさが露呈するほかない。相手方がまともでさえあればこの類のものは当然に僅か数秒で看破されてしまう。それでいて、相手方にとっては究極的にはどうでもいいので、余程に誠実でもない限りは話題として持続しない。いっそのこと断罪してくれれば弁明の機会も生まれるのだろうが、相手方も概してそこまで暇でも誠実でもないというか、そもそもこのような断罪を担ってくれる関係を他人と築ける人間であれば自己欺瞞に溺れること自体が稀なはずだろう。

世の中も人生もそこまで甘くも優しくもない。逃げた分だけ、誤魔化した分だけ、必ず自分が割を食う。結局は他人を措定して捏造された自分のための欺瞞に、自分で(勝手に)向き合わされるような格好となる。惨めの一言に尽きる。この期に及んでは、この惨めさこそが自分を小手先を超えた場所へと連れて行ってくれるのだと祈るほかないのだろう。たとえ苦渋に溺れながらもこのような祈りを抱けること自体が幸運だと信じながら。究極的には精神性の問題だが、それ以上の問題など滅多にないのではないか。自己欺瞞に塗れたそれらしい正当化やナラティブなんてものは、結局は他人の心を動かすことはなく、自分の首を絞めていくのであり、それどころか、この構図を招いたのが自分自身にほかならないというメタなレベルの悔恨が更に重くのしかかってくる。こうなると自己欺瞞云々を取り扱う余裕もなくなってきて、結局はこの手の欺瞞に塗れた人間同士で傷を舐め合いながら他責で生きていくほかなくなる。

 

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人生への責任

自分の人生への責任を全て背負って生きて死んでいくほかないという残酷極まりない当然の事実を覚悟を以て受容した人間は、たとえ表面的には柔和でも、奥底から鬼気迫るものが滲み出て来る。無論、元来的に個人の生は独立して存立しているものではないので、他人の生ひいては人間社会をも背負う形で自分の人生のあり方を規定することも当然にあり得る。界隈の真っ当な救命救急医と教育者は、やはりこの点が抜きん出ている。自分のあらゆる振る舞いが目の前の人間の人生を左右するという矜持と恐怖を相手方に悟られないように自分の中で発酵させていく姿勢は手放しに称賛せざるを得ない。こういった人たちに触れると自分の背筋も伸びる。二流が一流を自称しても三流に称賛されるだけでしかない中、究極的には、「お前の人生、本当にそんなものでいいのか?」という問いを自分に向け続けられるかどうかでしかない。この帰結が美意識であり、価値観であり、生き様にほかならない。

 

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意味への問いと自己否定

こんなことに何の意味があるのか、と問うことを続けていくと、否応なしに自分という存在の意義さえも否定せざるを得なくなってくる。この問いの行き着く先、つまりは、得心と諦念とを以て意味の追求をようやく終えられる場所にこそ、思想信条がある。自己否定の蓄積の中においてのみ存在論的了解の支柱が樹立されていくのであり、この支柱の強靭さが、世に言う有意義な人生を支えていく。その意義は意味への問いへの答たり得ないが、問いそのものを霧消させてくれるものにほかならない。

 

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言葉の頽廃による感性の消失、あるいは人間性の敗北について

言葉を尽くして感情や思想や記憶を語り、伝え、遺していく。この種の人間的営為に纏わる姿勢それ自体が前時代的なものになりつつある。衆目を集めるには過剰に単純化された形容や揚げ足取り染みた極論の方が効率(まさに"コスパ/タイパ")がいい。言葉が情報として下賤に浪費されるようになって久しく、この浪費に値しない言葉は市場価値が低いという理由で存在意義を認められ難くなってしまっている。何十年もの経験と何十時間もの手間の集大成たる一皿もファストフードも同等に「おいしい」という一言と不自然極まりない加工に塗れた写真とで貶められてしまうこんなくだらない世界で、忘れられない、或いは忘れたくない一言も、表情も、風景も、何もかもが軽薄に一般化されて日々無惨にも失われていく。自他の心に刻むための言葉も刻まれるべきものを見定める感性も、人間の人間たる所以として両者を見定め保全していくべきだという思想も努力も、諸共に時勢に掻き消されていく。分断などという便利な言葉では到底片付けられない根源的な断絶が感知されることさえなく至る所で拡がり深まっている。「死ぬまでファストフード貪りながらSNSに粘着してドーパミンに溺れてろ」と断罪することもできるのだろうが、それを何としてでも拒否するところにこそ人間全般への儚くも涙ぐましい信頼がある。この信頼を放棄しないことこそが人間全体の尊厳に根本から関わる問題にほかならず、ゆえにその在処としての言論空間と言説とが致命的に重要だったが、いまや到底機能しているとは言えない。言葉が頽廃し、感性が消失し、人間性が敗北した果てに何が待ち受けているのか。ここに悍ましい不安を抱くことさえも既に時代錯誤なのか。

 

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「白い犬とブランコ」の記憶

学部生時分に掲題の短編に出会った。当時はドゥルーズのメルヴィル解釈に傾倒していたはずなのだが、いかなる心境ゆえか聴講していた中国思想の講義で紹介された作品群のひとつだった。

講義を担当されていた教授は魯迅「故郷」などの新訳で高名だった。中学の教科書に掲載されていた「故郷」は記憶に刻まれていたが、教授の新訳は、それと比しても殊勝だった。中間レポートで当該作品中の一文の訳出に係る解釈を書き綴ったところ、「同感です。」といった旨の講評が添えられて返却された。

掲題の短編は期末レポートで採り上げた(訳は別の研究者によるもの。)。この作品「白い犬とブランコ」は、ノーベル文学賞も受賞した莫言 (Mo Yan) が郷里の記憶に基づいて紡いだ作品であり、郷里を離れて都市部で出世を重ねた主人公が久方ぶりに帰郷した折の物語である点で「故郷」とも通底している。まさに題名が示唆するように、慎ましくも繊細な色彩を以て生命の脈動と無機的な残酷さとを重層的かつ切実に醸出することに成功している、人類史に残されるべき稀有な名作であり、また、名訳でもあったように思われた。すでに卒業後は経産官僚になることが決まっていた当時の自分には、その技巧と主題もあって、殊に趣深く感じられた。

返却されたレポートには「深い共感に支えられた解釈である。」といった旨のことが書かれていた。その講評の冒頭には「野村将揮 同学」と付されていた。初めて目にした言葉だった。甘美と形容するにはあまりに厳かなその一語は、それでいて、「知の下では誰しもが等しくともにある」という矜持と敬意を纏っていた。上記した同感も、共感の感得も、両者があってこそのものだった。

あれから10年が経ち、曲がりなりにも学術論文を書くに至っている。こんな自分は、中学時代の教科書から、あの教授が数え切れないほど用いてきたであろう何気ない一語に至るまでの、あまりに瑣末で尊い記憶の蓄積に支えられている。掲題の作品を含む短編集は、今なお書斎の書棚にある。

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大江健三郎が莫言の家を訪ねた際に、文学における風景と記憶について述べた貴重な動画:

https://youtu.be/joK-E0IHuMI?t=217

『白い犬とブランコ 莫言自選短編集』(NHK出版)

https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000054362003.html