野村将揮 | Philosophical Insights − 哲学と政策と経営のあいだ −

哲学研究者で元経産官僚で医療AIベンチャーCXOがハーバードで考えた哲学的洞察の走り書き

妥協という規範化

人生において何かを諦めるという経験は、価値観の形成に根深い影響を与え得る。人生を左右するレベルの妥協は、自己防衛のための暗黙の正当化の中で規範化されていく。一個の人間の価値観は、成功よりも失敗や挫折で形成・強化されやすい。後者の方が心に刻まれて長く化膿しやすいのだから道理ではある。自分の価値観/価値規範の根底にある妥協を探す意識的な努力は、新たな挑戦の機会を提示してくれるかもしれない。それは価値観/価値規範の刷新の好機たり得るし、過去の清算やコンプレックスの超克たり得る。とは言え、この努力を不断に続ける程度の誠実さを人間に期待するのも、やはり高尚に過ぎるというか傲慢で暴力的なお話なのかもしれない。他方では、この妥協もまた規範化に至る最たるものだろうし、この種の諦念こそが人間社会の鬱屈とした閉塞感を醸成してきたようにも思われてならない。こうして妥協が妥協を、諦念が諦念を、再生産・強化していく。これに抗う精神的強靭さを獲得し保持できるかどうか。

 

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本稿の著作権は著者に帰属します。著者の許諾のない複製・転載・引用等を禁止するとともに、これらに対しては、適宜、法令に則り対応します。どうかご留意ください。

義理と情理と

誰しもが数多の不義理を重ねてようやくに義理や情理の何たるかを教わるのではないかと思い至っている。このような心境に達すること自体が円熟のひとつのあり方なのだろう。身につまされることも余りに多いが、歳を取ったのか、他人の不義理に然程に強い憤りを抱くことは滅法減ってきたらしい。だとすれば、謝罪に行脚するよりは淡々と目配せしてやることこそが報恩なのだろう。この総体が(嫌いな規定の仕方だが、いわゆる)日本的なのか儒教的なのか何なのかについても一応は考えていきたいが、まずは赤面しながら就寝する。歪んだ憎悪や他責性を化膿させない支えとしての理に感謝しつつ。

 

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合縁奇縁

自己理解の深化や自己像の刷新は一般に(現在のみならず過去における)他者を介して為されていくが、これとは別次元の話として、畢竟、万事そのあいだにおいて不断に発見・解体・再定義を経た自己らしき何かを受容し愛でてくれる者との出逢いに恵まれるかどうかに尽きるのではないか。メタに言えばこの点に関する諦念にも似た肯定感に拠って立つことこそがこの類の僥倖をもたらす側面もあるはずで、この足場を獲得するまでが身を切るがごとき苦難や苦痛の連続なのだが、これらを超えられるか否かは結果論でしか語られない中で自助努力の問題に帰するのもあまりに暴力的ではある。ささやかな抗暴としてはひとり静かに感謝を捧げるにほかはなく、その先が神なのか仏なのか何なのかを言語による規定を超えて是認できれば、生死を支える精神的支柱に成り得るだろう。宗教的啓示に帰因しない人生や自己存在の肯定のあり方については先達に話を聞いて回る必要がありそうではある。

 

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間合いと愛着

共同体や人間関係一般への間合いや愛着の取り方が個々人によって果てしなく多様であるという前提に立って具体的他者の理解に努めるといいのだろう。表現形の問題を超えて、人柄ひいては人生観の問題として。そもそもこの類のものが多様であるということ自体への無理解が蔓延している。もっとも、この無理解の程度は関係の構築・強化を大きく左右することが常ではあるので、ごく自然に淘汰されているようにも思われはするが、少なくとも共同体規範の規定や大きな意思決定においては相当に重要な基準たり得るだろう。

 

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結果への執念

結果にはそれ相応の苦難や苦悩が伴う。しかしながら、この当然の事実を受け容れる覚悟は、一朝一夕はおろか、 "原体験" だとか "ライフイベント" だとかいった軽薄な言葉で吐露ないし開示できる程度の物では醸成され得ない。身を切るがごとき自助努力を極限まで重ねた末に、努力などという綺麗事だけではどうにもならない人生の残酷さを泣きながら噛み締め、これらをも糧にして絶望しながら結果を追求するという思想や信条、或いは狂気。この種のものに触れてこなかった人間が幸運なのか不運なのかは断じ難く、また、この種のものに触れる機会自体が大幅に減ってきている社会潮流を断罪するにも拠り所が無いのだが、泣きながら自他と向き合い続けてきた人間が日夜愉悦に惚けている人間よりも(少なくとも傍目に見て)報われるのは道理だろう。翻って、この執念の有無や程度を見定めることが対人関係や組織運営における健全な距離感を、すなわち諦念と矜持を、可能とするのであれば、それもまた絶望的な話ではある。

 

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他責性とコンプレックス

誰しも、他人の特定の言葉が幾年にも亘って心に刻まれて苦しむ、といった経験が多少なりともあるのだろうが、その発話者を逆恨みする人間があまりに多いように思われてならない(そして社会潮流としてあまりに増加し増長している)。実際には、具に見れば、これは本来的に倒錯している場合が大半だろう。

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哲学的に考えてみる: SDGsと日本の哲学

本稿では巷で流行りのSDGsについて哲学的に考えてみたい。先立って結論染みたものを極めて単純化して述べてしまえば、下記のようなこととなる。

SDGsやSustainabilityまわりの議論は、個人主義や資本主義といった今日日において支配的な思想に通底する根幹の西洋的規範、すなわち二元論(Dualism/Dichotomy)や要素還元主義(Reductionism)等の超克を志向する思想潮流の(再度の)萌芽かもしれない。

そもそもで、SDGsの "Sustain" や "Develop" といった概念自体が、極めて西洋的なものにほかならない。というのも、 "Sustain" や "Develop" といった動詞で意味される概念の大前提には、自己/人間に主体としての特権を付与した上で他者/自然などを対象化する精神性があり(これは自然を目的格に置こうとする心性でもある)、これは人類の思想史上は決して普遍的なものではない。

また、この種の運動論や思想転換の試みは戦後も頻発していたことは看過できないし、さらに穿った見方をすれば、環境問題/気候変動の議論さえもが、実際的危機や具体的課題として一般に想像可能性が高いがゆえに、アービトラージの演出を伴う政治利用や市場創出に繋げられている側面ともシビアに向き合う必要がある(このように書くと昨今の日本では「野村は環境問題/気候変動の解決に反対なのか」と言われてしまいそうだが、論理的にも字義的にもそのようなことには一抹とて言及していないことを念のため付言しておく。)。

徐々に本論に入って行きたい。

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哲学的に考えてみる: Z世代のメディア活躍と大人の責任

批判的な響きを伴う言葉ひとつ口にするだけで、たとえ文意や趣旨が攻撃的でなくとも、揚げ足取りや言葉狩りといった反撃(というか先制攻撃)に遭うという喜劇染みた社会構造がすでに完成しつつある。この社会構造と相補的に、いわゆるZ世代と銘打たれた若い世代がマスメディアに登場することが一般化してきた。

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