野村将揮 | Philosophical Insights − 哲学と政策と経営のあいだ −

哲学研究者で元経産官僚で医療AIベンチャーCXOがハーバードで考えた哲学的洞察の走り書き

自己欺瞞の限界

自己欺瞞は往々にして他人と相対することで我が身に突き付けられる。何事においても小手先や綺麗事でそれらしいことを演出することはできる。「これが本当にやりたかったことなんだ」とでも言ってしまえば、(こんなご時勢においては)真っ当な猜疑からも逃げられるし、「費用対効果が高い」「スピード感が大事」とでも言えば歓迎される。
だが、真髄を捉えている人間を前にすると結局は自分の浅薄さや愚かさが露呈するほかない。相手方がまともでさえあればこの類のものは当然に僅か数秒で看破されてしまう。それでいて、相手方にとっては究極的にはどうでもいいので、余程に誠実でもない限りは話題として持続しない。いっそのこと断罪してくれれば弁明の機会も生まれるのだろうが、相手方も概してそこまで暇でも誠実でもないというか、そもそもこのような断罪を担ってくれる関係を他人と築ける人間であれば自己欺瞞に溺れること自体が稀なはずだろう。

世の中も人生もそこまで甘くも優しくもない。逃げた分だけ、誤魔化した分だけ、必ず自分が割を食う。結局は他人を措定して捏造された自分のための欺瞞に、自分で(勝手に)向き合わされるような格好となる。惨めの一言に尽きる。この期に及んでは、この惨めさこそが自分を小手先を超えた場所へと連れて行ってくれるのだと祈るほかないのだろう。たとえ苦渋に溺れながらもこのような祈りを抱けること自体が幸運だと信じながら。究極的には精神性の問題だが、それ以上の問題など滅多にないのではないか。自己欺瞞に塗れたそれらしい正当化やナラティブなんてものは、結局は他人の心を動かすことはなく、自分の首を絞めていくのであり、それどころか、この構図を招いたのが自分自身にほかならないというメタなレベルの悔恨が更に重くのしかかってくる。こうなると自己欺瞞云々を取り扱う余裕もなくなってきて、結局はこの手の欺瞞に塗れた人間同士で傷を舐め合いながら他責で生きていくほかなくなる。

 

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