1.
同世代の友人たちが選挙/起業/研究/育児など銘々に奮闘している。主題や方法はどうあれ、社会ひいては歴史の中で何かを生み出し刻み遺そうとする生き様は本当に尊いものだと思う。自分は自分の価値観と戦略で生きていくに尽きるのだが、素直に、頑張ってほしいと心から思う。我ながら歳を取った。
2.
その上で書き置いておくと、目先の機会に浅慮にも飛び付く事例、つまりは、流行や潮流に小手先で迎合している場合も相当数見受けられる。
実際、10年や20年といった長期スパンで地力を付けながら愚直に準備を重ねていくというのは、内実の問題以上に態度の問題として、ただただ至難を極める。時流は即自的に表面的な「成果」を期待し、これを消費し、果ては使い棄ててくれる。そんな中、ご都合主義的あるいは愉快犯的に目先の機会や利益に飛びついてしてしまう場合もあれば、金銭面からキャリアの行き詰まりに至るまでの様々な要因で追いやられるがごとく非合理的な意思決定に ーそれゆえにある意味での飛躍を伴う挑戦にー 乗り出せる場合もある。無論、ともに人生の機微であり奥深さでもあるのだろうから、この味わい方は各個人の趣向すなわち価値観に依る。
とは言え、挑戦や行動それ自体を尊いものとみなすのは、ひとえに過大評価も甚だしい。究極的には死ぬまでに何を生み出して遺せるかという問題でしかないのだから、本来的にはこの問題と対峙し続ける中でむしろ長期的そして構造的な戦略が求められる。翻って、「その先が本当にあるのか」ひいては「生きて死ぬに値したと思える何かに到達できるのか」という点は、どこまでもシビアに自問し続けなければならない。
しかしながら、この自問にあたっての性善説的態度やある種の楽観主義も極めて重要ではあるらしい。これはもはや思想というより性分の問題と捉える方がいいのだろう。ある人にとっては大失敗や挫折でも、また別のある人にとっては人生を豊かにする学びや未来の(真の)飛躍の代え難い糧とたり得る。したがって、まずは自分の性分を ー当然に、自分の思想と併せてー 深く理解し続けていかねばならない。自分はいつからかこの文脈ではかなり保守的になった。(少なくともいまは)これでいいと納得できてしまっているのでこの点に関する自己変容を志向していないのだが、ここにもトートロジックな自己規定があることは間違いないので、その取扱いついては一度クリアな頭でじっくり考えたい。
3.
東大の文化祭(五月祭)で大学生向けに少し話をした。その後の懇親会も含めて、こちらが小っ恥ずかしくなるような純朴な質問や反応を数多くもらい、普段とは別の視点から自分を捉え直すいい機会となった。大変にありがたい。いまも、人間と社会の健全さの何たるかについて考えている。純朴な市民が純朴なまま生きて死んでいくことが叶い、その中でまた純朴な次世代が涵養されていく、といったいわば自然なあり方を歪めているものを、逃げずに直視する必要がある。
4.
目的合理性に乏しいことの問題性について。目的の曖昧さや純度・熟度の低さと、合理性を高める経験や知識の不足とを、努めて切り分けて考える必要がある。前者は主題の話であり、後者は方法の話にほかならない。いずれが脆弱であっても目的合理性に悖るが、それ以上に、両者の混同は手段の目的化を招き、無自覚にも根本で目的合理性それ自体が倒錯する。これは本当の本当に性質が悪い。
どこからを目的とし、どこからを手段とするかは、メタな次元でその人の思想を反映してもいる。言い換えれば、どこからなら目的として認め得るのか、という実存的な問題に帰結する。それは死という最たる主題の取扱いそのものと軌を一にしているのだが、現代社会は死を直視することを猶予する社会装置に ーつまりは、この逃避を暗黙に強いた上で合理化する力学にー 溢れ過ぎている。この猶予・逃避の中で漫然と過ごしているうちに死んでいくこととなる。文字通り、社会的病理だろう。
いずれにしても、ここで言う目的なるものが純度と熟度に悖れば、いくら手段が合理的であろうとも、総体としてはまるで笑えない茶番に終わる。笑えない茶番を悲劇と捉えるか喜劇と捉えるかもまた思想というか死生観次第なので、この問題化自体に齟齬というか歪みを見出すこともできるのだが、自分の中での合理化の立脚点を日常的に確認するようにしておかなければならない。流石にこの程度は教条的であってもいいだろう。