野村将揮 | 政策と経営と哲学のあいだ

京都/ハーバードを妻子&愛犬と散歩しながら考えたことの断章

2018-0525

 

とてもよい仕方でよい助言を与えてくれる人が幾名かおり、本当にありがたいと思う。振り返るにつけて、こういった人たちの一言一言に支えられて今の人生があるのだと感じる(と感じるにも、現状とそこに至る過程を相当程度肯定できているという幸運があることは間違いない。)。

 

関係性は交わしてきた意思疎通のスタイルに依拠する。内容、つまり論理的であるとか核心的であるとかいうことは、その実は代替可能なことが多いのだと思う。その伝達や共有の仕方こそが肝要なのであって、そこにこそ(今日日における)人間の成熟という問題があるのだろう。この点を機械の類に完全に依存できるほど、人間は出来がよくないのではないか。

 

何かを受容するにもバイアスをかなり掛けてしまうということに留意する必要がある。自分が判断や意思決定の主体である際のバイアスは比較的頻繁に言及されるが、実は、本を読むにも映画を観るにも人と話すにも、ひいては天気に何かを感じるにも食欲を認識するにも、準備されたバイアスが適用されているのだろう。Xというものに触れたときに、普段抱いているAという文脈や仮説に回収してA'に収斂させる、といったことが日常的に(そして極めて自然に)発生しているということについて、どこまで「客観的」になれるかという話なのだが、難しいのは、どの程度までそうありたいと思うのか(そしてその心境や心性そのものが上記のAであってXではなく、A'ひいてはA"といった風に強化され続ける心理構造にあること)をどう取り扱うかという話はある。

 

落語すげぇ。。【了】

 

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